201227

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

第7話 英学事始め(その5、ペリーの黒船と英語)

 

ペリーの黒船が浦賀に来港したのは幕末の嘉永6年(1853年)のことであった。

その日米交渉の公用語は何であったかは興味深い。多分詳しい史実が明確に記述されて

いるだろうが、英語ではなかった。

 

 第4話に出ていた蘭通詞・堀達之助の英語にまつわるエピソードが記録されている。

堀が日本船からペリーの旗艦サスケウハナ号に向かって「I can speak Dutch」と立派

な英語で呼びかけたことーーこれが当時の堀の精一杯の英語であったことーー実際の交

渉は英語ではなく下述のように進行したが、当日別れ際に、堀は「Want to go home

と再度英語を使ったことーーなどである。

 

 実際の交渉の公用語は何であったか。結論を先に言うなら、下記の複線であった。

1.英語←→蘭語←→日本語

2.英語←→漢文←(筆談)→日本語

英語を外交交渉の公用語にするには日本側通詞の英語力レベルも人数も不足であった。

浦賀奉行所詰めの主席通詞の森山栄之助は当時33歳、1849年に利尻島で逮捕され

長崎へ護送された米国捕鯨船員R.マクドナルドから約半年間英会話の実地訓練を受け

ていた。アメリカ黒船の船上交渉の主席通詞となった堀達之助は当時30歳、英語の学

習歴はあったが英会話の実地経験が乏しかった。

 

 一方、アメリカ側でも英語←→蘭語、英語←→漢語の通訳は帯同されていたが、日本

語を充分に使える通訳は居なかった。また上海から極めて有能な知識人で中国人通訳の

羅森(ローソン)を雇い入れ乗船させていた。一方で、日本側の唐通詞は漢語の読み書

き能力はあったが、漢語会話能力は不足していた。羅森は英語を適確な漢文に翻訳して、

日本側へ提出し、漢文を読解できる幕府の上位職役人の理解に資した。

 

 オランダ語で仲介する交渉に、補助的に漢文の筆談を用いた。薩摩藩の島津斉彬公、

土佐の山内容堂公に重用されたジョン・万次郎は日米和親条約締結に尽力したことで

有名であるが表の交渉の通訳ではなく裏方を務めていた。

 

 インターネットで興味深い文献1(pptスライド)を見つけた。

表題は「通訳の歴史(2)—幕末、開国時期における通訳者たちー」全42枚の

後半20枚は「ペリー艦隊の来航—オランダ通詞と開国—」である。

文献2(pdf)は文献1のスライド内容を原著者がpdf化したもの。

 

この文献には、本シリーズで既述の「福沢諭吉」や「フェートン号事件」、また今から

書き込む予定の事項などがスライド画面に簡潔にまとめられている。スライド表紙に著

者名や年月日の記載が無い。URLの末尾から少しずつ削除する方法で著者の所属を解

読、獨協大学准教授・永田小絵氏と判明した。若手の中国語通訳として商社勤務を経験

後、現職についた。上記文献は氏の獨協大での講義資料や講義録である。「獨協大」ま

たは「永田小絵」でキーワード検索すると多数の関連資料が得られる。

 

文献1 <http://nikka.3.pro.tok2.com/dokkyo/rekishi2.ppt>

 

文献2 <http://nikka.3.pro.tok2.com/dokkyo/rekishi2.pdf>

 

(つづく)