2012

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

第17話 ドイツ学事始め(その1、アイソマーズとドイツ化学史の旅

 

第1話に述べたが、幕末から明治維新の開化期に、従前の蘭学から洋学(英、仏、独)へ移行

するに当たって、理工学と医学はドイツ学へ進路をとった。当時の化学の先覚者たちの多くがド

イツ語圏へ留学した。

 

我々アイソマーズが在学した頃の京大工業化学科の学風はドイツの影響を色濃く反映していた。

教授、助教授陣をはじめ諸先生方は皆さんドイツ語にご堪能な雰囲気で、講義はドイツ語重視で

あった。工化第1講義室には、既に退官された名誉教授方の肖像画が掲示されていた。その中に

1人だけドイツ人 (Karl Lauer) の肖像が混在していた。その委細は、当時もその後も知らなか

ったけれど、ドイツ人の混在に何の違和感も持たなかった。3回生の有機化学演習はガッターマ

ンの定番教科書 (L. Gattermann  ”Die Praxis des Organischen Chemikers) の原書を、気鋭

の助教授陣が分担して講読して下さった。分析化学の教科書はトレッドウェル(F. P. Treadwell)

のドイツ語の原書であった。その上、分析化学実験のレポートはドイツ語で作成提出すれば自動

的に10点を加点すると奨励されていた。

 

某教授は講義中の話題で「旧帝大卒業生と旧高専卒業生を比較すると、実験のテクニックは旧

高専卒業生の方が上手だろう。旧帝大卒業生の強みは“ドイツ語と物理化学“である」と断言さ

れた。世間では「京大の工化系はドイツ語が出来る」との評判があったようだ。卒業〜就職して

数年後の1965年に西独デュッセルドルフ駐在事務所へ転勤することになった。その際、技術

系の副社長から「西村君はドイツ語が出来るから、語学研修を省略して、いきなり仕事に就いて

もらおう」と申し渡された。名誉ある誤解・・・は後で実害を生んだのであったが・・・。

 

アイソマーズの有志でリピートしている「ドイツ化学史の旅」のそもそもの発端、ユニークな

旅シリーズが成立した動機、3回もリピート出来た理由は種々挙げられる。それぞれの事情に通

底しているのは、ドイツ語に傾斜していた京大工化系の学風であった。リービッヒ、ヴェーラー、

ブンゼン等の史跡を巡るにつけ、彼等、19世紀ドイツ化学の巨星たちが京大工化系の学風へ幾

許かの影響を及ぼしたであろうことを思った。旅の準備の事前調査の中で、我々をご指導して下

さった教授陣、その教授陣がご指導を受けた喜多源逸先生、その喜多先生のルーツを・・・と次

々にたどれば、何世代目かにリービッヒやヴェーラーにつながるかも知れないとも考えた。武山

さんがアイソマーズ通信2011年号に書いているが、日本の近代薬学の開祖である長井長義は

1871年にベルリン大学のホフマンのもとへ留学したのでリービッヒの孫弟子と言える。我々

京大工業化学科で師事した先生方の中にリービッヒ、ヴェーラー等の曾孫弟子が居られたら、

我々は巨星たちのツリーの中の玄孫(やしゃご)弟子となるのだが・・・と思いは飛んだ。

 

(つづく)