201211

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

第19話 英学事始め(その10、山本有造著「ガワー3兄弟」)

 

山本經二さんを経由して、著者から下記の近著を頂いた。著者は山本經二さんのご令

弟で経済学者、京大名誉教授である。 

山本有造著 “「お雇い」鉱山技師エラスマス・ガワーとその兄弟“

2012 中部大学ブックシリーズActa19

本書は幕末・維新期に日本で活躍した英国人3兄弟の出自、家族の系譜、日本におけ

る業績などを丹念な一次文献調査から解明した論文。ネット上には書評やブログに多数

登場している。アイソマーズ仲間・武山さんと伊藤一男さんの書評は当HPに掲載済み

である。ここでは「科学史の雑記帳シリーズ」らしく余談を綴る。

 

「時代背景」

3兄弟の在日期間は次の通り整理出来る。

l  エーベル・ガワー(1836-1899)、三男。

在日期間:1859(安政6)1876(明治9)。外交官でイギリス領事などを歴任。

l  サミュエル・ガワー(1825-1892)、長男。

在日期間:1862(文久2)1865(慶応元年)。

ジャーディン・マセソン商会横浜支店長などを歴任。

l  エラスマス・ガワー(1830-1903)、次男。

在日期間1866(慶応2年)〜1880(明治13年)。

鉱山技師で茅沼炭坑。佐渡金山等で技術を教える。

この時代の主たる外交上の出来事「ペリー黒船(1853)〜日米和親条約(1854)〜ハリス日

米修好通商条約(1859)〜明治維新(1968)」と重ねてみると、著者が「はしがき」を「開港

期の・・・」と書き出される意味が鮮明になる。それが故に、この余談を拙稿シリーズ

「英学事始め」の1編に加えさせて頂く。

 

「堀達之助」

 本書467ページに次男エラスマス・ガワーが箱館奉行所宛に出状した書状(1867)の和

訳全文が掲載されている。訳者・堀達之助は、その当時は箱館奉行所の通詞兼英学教授

であった。堀はこれより5年前に、本邦初の英和辞典を編纂刊行している(蕃書調所か

ら改名した洋書調所刊行、1862、本シリーズ第4話参照)。それより更に前、ペリー来

航時に、黒船の旗艦 (サスケハナ号) に英語で “ I can speak Dutch “ と呼びかけた逸話

も残っている(1853、本シリーズ第7話参照)。

 

「次男エラスマス・ガワーの国内旅行」

次男エラスマスは長男サミュエルと三男エーベルの活躍する日本に来て、先ず箱館奉

行所の「お雇い」となった。その採用前の奉行所問い合わせに対するエラスマスの書状

が前項の話題である。書状の文中に彼が指導可能な項目として「測量術、分析術、英学、

伊多里亜学」を挙げている。「伊多里亜学」を含む理由は本書の解明する3兄弟の出自

から納得できる。蝦夷地、佐渡、長崎など日本国内を広く渡り歩いて活躍した。この時

代に外国人が国内を旅行する様子は、志保井重要(日本人妻との間に生まれた次男)の

「思い出の記」の中の具体的な記述が紹介されている(43ページ)。通詞、護衛の侍、陸

路は乗馬であるから馬丁、替え馬等々を従えた大人数のご一行となる。

 

「三男エーベル・ガワー」

日本最初の外国公館として1859年に江戸に置かれた英国総領事館にスタッフとして、

同年香港から着任したと注記されている(28ページ、▼注5)。長州藩が英国から汽船ラ

ンスフィールド号(壬戌丸)を購入した際に日本語が分かるので長男サミュエル・ガ

ワーの商談に立ち会った(1862)。その縁で長州の山尾庸三と知り合い、翌年(1863)の長

州五傑の渡英にも種々協力した(186320ページ)。江戸と横浜居留地の間を常に往来し

(27ページ)、後年来日する長兄サミュエル・ガワーとともに横浜居留地の外国人名士と

なってゆく(21ページ)。エーベルの着任した1859年は日米修好通商条約締結の年であり、

次項の福沢諭吉が横浜居留地で覚醒した年でもあった。

 

「福沢諭吉の覚醒」

福沢諭吉は本書に登場しないが時代を重ねてみる。若き日の福沢が横浜の新開地を

訪れ、蘭学の限界に愕然とし、英学の必要性に気付いたのは1859年であったと「福翁

自伝」に告白している (本シリーズ第2話 参照)。前項のエーベルが江戸の英国領事

館に着任した年である。領事館を必要とするくらい幕末の日本と英国とはヒト、モノの

交流が盛んとなっていたのである。蘭学の若きエースであった福沢諭吉がやや遅れて

そのことに覚醒したのであった。

 

「長男サミュエル・ガワー」

著者は「はしがき」で「開港場居留地の主役は何といっても貿易商人であった」と

記述されている。中でもその尖兵は、横浜に外資第一号として支店を置いた英国のジ

ャーディン・マセソン商会であった(185917ページ)。サミュエルはその2代目支店

長として来日した(186217ページ)

 

「宇都宮三郎」

車椅子に載ったエーベルが撮られた集合写真が紹介されている(86ページ)。エーベル

が兵庫・大阪領事の時代に大阪舎密局の開校式に出席した記念写真であるから、化学

史を学ぶ立場からは興味深い。ハラタマ教頭の隣席に宇都宮三郎が写っている。宇都

宮は「本邦化学工業の始祖」として共立出版の化学大辞典にも収載されている。川本

幸民の「化学の始祖」と対比される。淺野セメントや品川白レンガの前身を創業した

とされている。三井銀行元社長の故神谷健一氏は宇都宮三郎の本家筋の子孫であった。

今から約15年前、神谷氏が三井業際研究所の運営委員長であった頃に神谷家家伝の

非公開資料に基づき「宇都宮三郎伝」を講演された。

(つづく)