尖閣諸島の帰属問題

 

武山高之(2012年8月31日記)

 

話題の尖閣諸島の帰属問題について、「ウィキペディア」を参考にして、要点を「遡り年表」として、まとめてみました。詳しくは、28ページほどありますが「ウィキペディア」を調べて下さい。

 

Ⅰ.中華民国建国(1912年)から現代まで

 

中華民国建国(1912年)から日中国交正常化の前(1970年頃)までは、日本領としての尖閣諸島になにも問題はなかった。

しかし、日中国交正常化(1971年)の前の年頃から、海底油田の存在の可能性が出て来て、急に中国・台湾の尖閣諸島の領有権主張が始まった。領有権主張の根拠は、主に明時代の琉球冊封使の記録によっている。

また、日清戦争によって、台湾・澎湖諸島とともに、尖閣列島も奪い取ったという主張もある。

 

1.2000年以降

 この時代は、李登輝・元台湾総統(総統就任期間:1988年~2000年)の発言が目立っている。以下、年表に。

 

○ 2002年9月16日:沖縄タイムスのインタビューで、李登輝・元総統は「尖閣諸島は沖縄県の属する」と発言。台湾・中国・香港の報道機関は反発。

○ 2002年10月20日:李登輝・元総統は台湾国内で、「1970年に、海底油田説が浮上してから、この島を巡る争いが始まった。清朝が台湾を日本に譲渡した時、釣魚台はその範疇に入っていない。釣魚台はもともと琉球王国の土地である」と述べた。

○ 2004年1月:台湾当局が魚釣島を土地登記(4月に判明)

○ 2008年9月24日:沖縄訪問中の李登輝・元総統は「尖閣諸島は日本領土」と発言。台湾政府は個人的見解と一蹴。

○ 2012年6月5日:台湾・桃園県の国立中央大学の講演で、中国からの留学生の質問にたいして、「尖閣諸島は日本領」と発言。中国国内のインターネットが猛反発。

 

2.沖縄返還協定発効、日中国交正常化以降(1972年~1999年)

田中角栄と周恩来の日中国交正常化交渉および鄧小平の日中平和友好条約時の発言は興味深い。はっきり決めないことも重要な解決法と考えていたのだろう。以下、年表に。

 

○ 1972年9月27日:日中国交正常化交渉時の田中角栄総理大臣と周恩来国務院総理の会談の中で、田中角栄の質問に対して、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、話すのは良くない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」と言った。

○ 1972年10月:日本の歴史家・井上清(武山出身の土佐中学先輩)は「中国は歴史的に尖閣諸島を認識しており、日本が領有を主張するのは、国際法的に誤り」と主張。原田禹雄によって、井上の史料解釈杜撰であったと判明。

○ 1978年10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国の鄧小平国務院常務副総理は、記者会見の席上で「尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないことに約束した。今回の平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」

○ 1979年5月17日:海上保安庁は、魚釣島に仮設ヘリポートを設置。中国から抗議あり。日本政府は独自に撤去。

○ 1992年2月25日:中国は領海法を制定。釣魚列島(尖閣諸島)を自国領であると記載。

 

3.サンフランシスコ平和条約調印後、米国の信託統治下(1951年~1972年)

1970年までは、中国・台湾ともに、尖閣諸島は日本領として認めていたが、1971年頃から、ともに領有権を主張し始めた。

(注:中国を代表するのは中華民国と中華人民共和国のいずれかかという議論があり、ともにサンフランシスコ平和条約調印式に招待されていない)

以下、年表に。

 

○ 1952年2月29日:尖閣諸島域内を琉球列島の一部として、米軍施政下におく。艦砲・爆撃の射的に使用。

○ 1953年1月8日:『人民日報』が「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」という記事を記載。尖閣諸島を日本名で記載、琉球群島の一部と紹介。

○ 1953年12月25日:奄美諸島の日本返還の時、尖閣諸島は琉球列島内であることを再確認。

○ 1958年11月:北京の地図出版社『世界地図集』発行。尖閣諸島を日本領として、日本名で表記。

○1965年10月:中華民国(台湾)国防研究院『世界地図集』初版出版。尖閣諸島を日本領とし、尖閣群島と日本名で表記。

○ 1970年1月:中華民国(台湾)国定教科書『国民中学地理科教科書』で、尖閣諸島を日本領とし、尖閣群島と日本名で表記。

○ 1971年6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張(蒋介石総統の時代)。

○ 1971年10月:中華人民共和国の国連加盟。

○ 1971年12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。

「早くも明代にこれらの島はすでに中国の海上防衛区域に含まれていたと」と発表。

 

4.連合国統治下(1945年~1951年)

 連合国は尖閣諸島を沖縄の一部と考えていた。以下、年表に。

 

○ 1946年1月29日:尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が日本から連合国に移された。

(注:これは尖閣諸島が台湾領でも中国領でもないという連合国の判断)

○ 1950年11月頃:伊良部島の漁師たちが、南小島にカツオの加工所を造り、漁師や女性従業員ら計22名が最大3ヶ月間過ごす。

 

5.中華民国(1912年)~満州事変(1931年)~終戦(1945年)

中華民国も尖閣諸島を日本領と認めていた。以下、年表に。

 

○ 1918年:古賀辰四郎(後述)の息子・善次が尖閣諸島におけるカツオブシ工場などの事業を継承。

○ 1920年:中華民国・駐長崎領事から魚釣島に漂着した遭難民救助に対して、感謝状が贈られた。あて先は、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島』と明記。

(注:この史料は、先日、予算委員会で公明党議員から示された。)

 

 

Ⅱ.琉球王国廃止、琉球藩(1872年)~鹿児島県編入(1879年)~日清戦争、下関条約(1895年)~清国滅亡(1912年)

 

この時代に、日清両属だった琉球の日本への帰属が決まった。その際、清国は尖閣諸島だけの領有権ではなく、琉球そのものの領有権を主張していた。

尖閣諸島が日本領に取り入れられたのは、日清戦争(1894年~95年)の時期であった。

 

6.琉球処分から清の滅亡まで

日本政府は、尖閣諸島を日本領にするに当って、無人で、かつどこの国にも属していないことも確認など、10年ほどかけて慎重に調査している。以下、年表に。

 

○ 1872年9月14日:琉球王国廃止、琉球藩設置。同3月11日琉球藩廃止、鹿児島県に編入。同4月4日沖縄県設置。

○ 1872年:清国が琉球の領有権を主張。日本は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加と引替えに、旧琉球王国南部の先島諸島(八重山諸島、石垣諸島。無人の尖閣諸島が入っていたか?)の清国への割譲を提案し仮調印したが、李鴻章の反対で棚上げ。(日清戦争により撤回)

(注:清国は尖閣諸島だけでなく、琉球全体の領有を主張していた)

○ 1894年7月:日清戦争勃発

○ 1895年1月21日:1885年実業家・古賀辰四郎から尖閣諸島での事業展開のため沖縄県に借地契約請求があった長年の懸案事項に関連して、内務大臣から沖縄県知事に尖閣諸島の魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。

この日から尖閣諸島が日本領になった。

*本件重要なので、別報にて詳しい経緯を述べます。

○ 1895年4月17日:日清講和条約(下関条約)が締結され終戦。清が台湾と澎湖諸島を日本に割譲。(中国の一部に、尖閣諸島もこの時に割譲を迫られたという発言もあるが、尖閣諸島は沖縄県に属しており、割譲対象とは別)。    

 

Ⅲ.明の建国(1368年)~明治維新(1868年)

 

日本は戦国時代・安土・桃山時代、江戸時代に、中国は明・清時代に、沖縄は琉球王国時代に当る。

この時代は中国から琉球へは、明・清の冊封使船が福建から台湾基隆の北を通り、尖閣諸島付近、久米島あたりを通り、琉球王国に通っていた。従って、尖閣諸島に関する文献記述は冊封使の見聞が中心であった。

1609年以降の琉球王国は薩摩の支配も受け、日清両属となる。NHKドラマ『テンペスト』の時代。

この時代の尖閣諸島帰属問題は、「冊封使の記録文の献解釈論」である。冊封使の記録にあるというだけで、明・清が支配権を持っていたとは言えないのでは。

 

7.清の建国(1644年)~明治維新(1868年)

この時代の記録は次の通りである。

 

○ 1686年:清の冊封史・汪楫の報告書『使琉球雑録』に、釣魚嶼などの記載あり。

○ 1708年:琉球士族・程順則の『指南広義』に魚釣台・赤尾嶼・黄尾嶼の尖閣諸島の表記あり。

○ 1743年:乾隆帝の命により編纂された地理書『大清一統志』の台湾府図には、尖閣諸島は台湾には含まれていない。

○ 1785年:林子平『三国通覧図説』では尖閣諸島は中国と同じ色に塗られている。 

 

8.明の建国(1368年)~明の滅亡(1644年)

 尖閣諸島の記録は、16世紀に遡る。現代中国は、これにより、尖閣諸島は16世紀から中国の防衛圏に入っていたと主張している。以下、年表に。

 

○ 1534年:明の冊封使・陳侃(チン・カン)の報告書『使琉球録』に釣魚嶼・黄毛嶼・赤嶼(ともに現在の尖閣諸島)を過ぎ、と記載されている。

(注:尖閣諸島は中国領と主張する歴史家・井上清による)

○ 1561年:明の琉球使節・郭汝霖の上奏文に「琉球の界地に渉る。界地は赤嶼(現在の尖閣諸島大正島)」

(注:長崎純心大学石井望は、この記載から明は尖閣諸島を琉球領だと認めているとているが、中国ミディアは誤読だとしている)

○ 16世紀:明の鄭若曾著『琉球図説』の「琉球国図」に釣魚嶼が描かれている。

 

これらの明時代の文献が、尖閣諸島の帰属の根拠に議論されているが、冊封使の船が横を通った時に記載であり、現在の国際法上、どれだけの価値があるかは、門外漢には分からない。こんな所に議論があることをお知らせるに留める。

 

9.「中国高校歴史教科書」の明清時代の記載と尖閣諸島

 尖閣諸島は明清時代の領土拡大の一部に紹介されている。韓国の高校歴史教科書の竹島記載ほどストレートな主張ではない。ただ、中国は特別な国で、王朝が変わっても、近代国家になっても、領土の主張は変わらない覇権主義を貫いているように思える。

 

『中国高校歴史教科書「中国の歴史」』訳(明石書店)(2006年頃読む)

315ページ:明清時代の多民族国家統一の発展「清朝の領域」から

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清朝前期、わが国の領域は、西は葱嶺(パミール高原)にまたがり、西北はバルハシ湖

に達し、北はシベリアに接し、東北は黒竜江以北の外興安嶺と樺太に至り、東は太平

洋を臨み、東南は台湾およびその付属の島と魚釣島、赤尾(この2島は尖閣

諸島)などに至り、南は南海諸島を含んで、アジア東部最大の国家となった。広大な

領土には漢、蒙、回、蔵など50余の民族が生活している。各民族は団結し助け合

い、祖国の強化と発展のために巨大な貢献を作り上げた。

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Ⅳ.尖閣諸島を日本領にした経緯

前述の、「1895年1月21日 1885年実業家・古賀辰四郎から尖閣諸島での事業展開のため沖縄県に借地契約請求があった長年の懸案事項に関連して、内務大臣から沖縄県知事に尖閣諸島の魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。

この日から尖閣諸島が日本領になった」には、当時の関係者が非常に気を使っていた記載があるので、ここで再度、詳しい経緯を述べる。ちょうど、日清戦争の時でもある。

 

以下、「琉球処分(1872年~1879年)から日清戦争終結(1895年)」まで詳しく述べる。

 

10.琉球処分について

琉球王国の廃止から沖縄県設置を琉球処分では、清は琉球の領有権まで主張していた。

 

○ 1872年:琉球王国廃止、琉球藩に。1879年3月11日:琉球藩を廃止、鹿児島県に編入。同年4月4日:沖縄県設置。

○ 琉球の領有権を主張した清に対して、日本は「日清修好条規への最恵国待遇条項追加と引き換えに、先島諸島の清国への割譲を提案、仮調印したが、李鴻章の反対で棚上げ。本件、下関条約で解決。

 

11.尖閣諸島の領有化過程について

民間人からの申請があり、作業が始まっているが、慎重に進め、尖閣諸島を日本領に決定するまで、10年かかっている。

その間に、山県有朋、井上馨、陸奥宗光という歴史上の人物が関与している。以下、年表に。

 

○ 1859年以降に:大城永保が尖閣諸島を調査。1885年無人であることを沖縄県庁に報告。

○ 1885年:実業家・古賀辰四郎が事業展開のため、沖縄県に借地契約を請求。内務省は沖縄県にこの島の詳しい調査を命じる。

9月22日:沖縄県令は

「久場島、魚釣島(ともに尖閣の一部)は古来より本県で称する島名であり、久米・宮古・八重山の諸島に接近する無人島で、沖縄県に属するものであるが、中国の古文書にある釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものないとは言い切れないので、慎重に調査する必要がある」

と内務省に報告。

10月9日:内務卿・山県有朋は

「清国所属の証拠は少しも見えない」

と外務卿・井上馨と協議。

10月21日:井上は

「清の新聞が自国領土の花瓶嶼、彭佳山(ともに台湾・基隆の北)を日本が占領するかも知れないと風説を流して、清の政府や民衆が日本に猜疑心を抱いている。こんな時に、『国標』を建てるのは徒に不安を煽るので好ましくない」

と山県に回答。

11月5日::沖縄県令から『沖縄県所轄の表札』建設を上申。

○ 1890年1月13日:沖縄県令・丸岡が『国標』を立てることを再度、国に要請。

○ 1893年11月2日:沖縄県令・奈良原が『国標』のことを再度、国に要請。

○ 1895年1月11日:外務大臣・陸奥宗光は、内務大臣・野村靖に『国標』を建てることに同意すると伝える。

○ 同1月14日:尖閣諸島を正式に日本領とした。

○ 同年1月21日:内務大臣から沖縄県令に『沖縄県所轄の標杭』を建てることを指示。

○ 同年4月17日:下関条約締結。清は台湾と澎湖諸島を日本に割譲。

 

下関条約のごたごたの時であり、尖閣諸島の日本領有化の問題は、清国との間では問題にならなかったと思われる。

はじめは清国を刺激しないように、日本政府が気を配っているのは、現代と共通点がある。

 

 

国民は、真実をよく知っていなければならないが。中国とどう交渉するかは、外交問題である。