201311

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

第23話 ドイツ学事始め(その5、フランス学 vs ドイツ学)

 

幕末から明治文明開化の時代、蘭学に代わって洋学がブーム化する中で、ドイツ学は英学・仏学よりかなり遅れたけれど1880年代に入ると急に盛んとなった。東京帝国大学が発足した1886年頃には、明治政府は国策としてドイツ学とドイツ語を重視するようになった。

この時期に仏学が停滞し、それに代わってドイツ学が繁盛したのは何故か。その間の事情は明治維新史の一部として研究され、多くの史実が記述されている。文献もネット情報も容易にアクセスできるから、ここでそれらを引用〜転記することは止めて、なるべく簡潔に項目を列挙しておこう。

 

1.   岩倉使節団の欧米視察

欧米視察(1871-73)は、米国(8ヶ月)、英国(4ヶ月)、仏国(2ヶ月)と長期滞在した。ドイツには短期滞在であったが使節団が受けたインパクトは大きかった。その時ドイツは普仏戦争に圧勝し、プロイセンを中心とする統一ドイツ帝国が誕生(1871)した直後であった。隆盛するドイツは、19世紀半ばまでに化学工業立国に成功し、それを尖兵として産業大国から富国強兵〜軍事大国へと繋がったのであった。当時の最先進国の英・仏のうち英国の繁栄は続いていたが、普仏戦争に敗れたフランスは、科学技術、産業、経済など国力全般の停滞期に入った。使節団首脳は、明治維新後の日本が天皇を中心とする立憲君主制で国づくりするお手本としてドイツ(プロイセン)が最適であると気付いた。

 

2.   鉄血宰相・ビスマルク

使節団は時の鉄血宰相・ビスマルクから夕食会(1873)に招待された。その時のビスマルクの名演説に日本の政治家たち(伊藤博文、大久保利通ら)は心酔した。ビスマルクは「英・仏・露はじめ欧州列国は建前では親善、友好を装うが、本音では弱肉強食の植民地獲得競争をしている」と使節団に説き、新参者である日本国の注意を喚起した。その演説要旨はWikipedeia「ビスマルク・日本との関係・岩倉使節団との交流」の項に詳しく紹介されている。

 

3.   遠因はリービッヒ!!

この時代のドイツ躍進の発端を「そもそも論」で云うなら「リービッヒとその弟子たちの活躍」に

  たどり着く。明治政府がドイツ学に傾斜した遠因はリービッヒ!!

 

4.   明治政府内でドイツ派が優勢に

明治初期、近代国家を目指す考え方には、当初、米・英・仏の影響が強かったが、上記の2項目をきっかけに、明治政府内でドイツ方式を取り入れようとする主張が優勢になった。有力政治家(伊藤博文ら)、レベルの高かったお雇いドイツ人(G. ワグネル、E. ベルツら)、ドイツに詳しい知識人(青木周蔵ら)の影響も大きかった。

 

5.   青木周蔵(1844-1914)

この時代のドイツ通の第一人者は青木周蔵(1844-1914)であった。医学でドイツ留学(1868)したが直ぐに文系へ転進し外交官となった。外務省入省(1873)、その後永年に亘って駐独公使、外務次官、外務大臣を歴任〜再任する。留学〜外交官としてドイツ在住25年の経験を有し、ドイツ貴族令嬢と結婚(1877)していた。それらの有利な条件を活かして、ドイツの国情、諸制度、人脈などを日本へ紹介した

 

6.   大日本帝国憲法

明治憲法制定の準備は、英、仏など先進国の法体系や制度を調査、研究することから始まった。長い年月をかけ、数多の関係者が関与して、紆余曲折もあった。大日本帝国憲法として制定(1989発布1890施行)されるまでには政治家間の権力闘争もあった。結局、伊藤博文らが主導して、ドイツ(プロイセン)の法体系をモデルとすることに決定した。制定への実務は井上毅(1844-1895)が仕切った。井上はフランス語から出発したが、途中からドイツ派に転進し。複数のドイツ人法律学者を顧問として活用した。後年彼は、法制局長官、文部大臣を歴任した。他に、同時代の法務官僚出身の政治家であった平田東助(1849-1925)は、ドイツ留学(ハイデルベルク大学、ベルリン大学)し、ハイデルベルク大学で日本人初のPhDを得ている。                                                                        

                                       (つづく)