無言館への道

武山文子

 

絵は静かに語りかける

 

 信州上田交通・別所線塩田駅を降りて、駅から続く木の案内板を頼りに、十月になってもまだ強い陽射しが照りつける、細い田舎道を歩いて行った。稲穂は黄金色に波打っている。刈り取られた稲は三角に束ねられ、整列している。農家の庭先には、真っ赤な鶏頭やコスモスが秋を告げている。四十分程歩いて、やっと丘が見えてきた。

 二つの急な坂を上り詰めると、教会のようなコンクリートの建物が丘の上に静かに立っていた。戦没画学生慰霊美術館《無言館》である。先の日中戦争、太平洋戦争によって志なかばで倒れた画学生たち、約四十名の遺作や遺品が展示されている。野見山暁治画伯の亡き画友への鎮魂録『祈りの画集』にうたれて、窪島誠一郎氏が信濃デッサン館(十九年前に開館)の分館として、二年前に開館した。全国に画学生の遺族を訪ね歩き、絵を収集し、遠い記憶の闇の中から掘り起こし、光を当てたのである。

 入口の重い木のドアーを押して入ると、館内は薄暗い。天井からの光りに照らされて、志なかばで戦場に散った画学生たちが、満感の思いをこめて描いた絵の数々が、静かに語りかけてくる。モティーフは恋人、妻、母、妹と女性が描かれた絵が多い。そして、迫力ある自画像の数々がじっとこちらを見て、何かを訴えようとしている。「もっと生きて、もっと絵が描きたかった」と言っているようである。無念の思いが私の胸をつきあげた。「すすり泣きの聞こえる美術館」「涙の止まらない美術館」と聞いていたが、私は涙が少しも出て来なかった。館内に満ちている静かだが強い、気のようなものに包まれて、重くるしい感じであった。

 絵はみんな上手だと思った。みんなが東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業しているわけではないが、美術教育の確かさに驚きながら、ここでの画学生は、当たり前のことながら、絵が好きで、好きでたまらない人たちだったのだと思った。

 

父や母への愛

 

 絵や詩、文章をかくことは、表現方法は違っても、まぎれもなく生きている自分を写し出す作業である。その時は他人の目を意識しているわけでもないが、人目に触れて、こめられた思いを他人が汲み取って共感してくれたら、それは大きな喜びである。五十年も倉の中で眠っていた作品が、封印を解かれて私達の前に姿を現した。これからずっと世代を越えて、何万人、何百万人もの人たちの心に棲みついて、影響を与え続けるだろう。作者は亡くなっても、作品が残った。幸せなことだ。なぐり書きの紙切れ一枚も残さず、死んでいった多数の人にくらべたら。

 館内にはられた窪島氏の詩

『あなたを知らない』も心に残る。

 

 遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ

 私はあなたを知らない

 知っているのはあなたが遺した

             たった一枚の絵だ

 あなたの絵は朱い血の色にそまっているが

 それは人の身体を流れる血ではなく

 あなたが別れた祖国の

          あのふるさとの夕焼け色

 あなたの胸をそめている父や母の愛の色だ

         (中略)

 私はあなたを知らない

 知っているのはあなたが遺した

             たった一枚の絵だ

 その絵に刻まれたかけがえのないあなたの

               生命の時間だ

 

 私は昭和十五年生まれ、窪島氏と同じ世代である。戦争経験が少なく『あなたを知らない』のである。この絵に出会って、父母や姉兄たちから聞いた戦争の断片が呼び起こされた。戦地で負傷した叔父の左足の、弾丸に打ち抜かれた傷跡を思い出した。彈が入った方の傷よりも出た方の傷が大きかったことも。

 無言館を訪れる、様々な世代の人々がノートに感想を残している。共通して言えることは「画学生たちの絵に対するひたむきな気持ちに共感し、逆境にも耐える勇気を得た」ということである。

 私は、この無言館に来て父や母への愛の大切さを教えてもらった。こんなにあけっぴろげに父や母への愛を表現してもいいのだと。

 

仲のよい兄弟の合作

 

 山之井龍朗、俊朗兄弟が描いた二枚の少女の絵が印象に残った。解説によると、二人は本当に仲のよい兄弟で、洋画家の父に絵を学び、出征する前に龍朗さんは『白いブラウスの少女』を描き、もう一枚『草原に座する少女』を二人で合作した。 白い半袖のブラウスに紺のジャンパースカート、バックルもなつかしい型である。オカッパ頭の直線断ちの黒髪は、毛先がちょっと揺れている。手をひざに置き、きりっとした切れ長の目でまっすぐ前をみつめる姿は、とてもさわやかな印象である。この絵は、後で買い求めた『無言館を訪ねて‐祈りの絵‐第二集』の表紙にもなっている。むかし、私も着ていた、このシンプルな服装が、いま新鮮だ。

 二人で合作した、もう一枚の少女は草むらに座って、少しはにかんで頬っぺたを赤くしている。やさしい絵だ。

 二人でこの絵について、あれこれと批評し合ってる様子が目に見えるようだ。

 龍朗、俊朗兄弟が茅ヶ崎の訓練所に入所した時、海岸で撮った写真を資料の中に見つけた。

 二人はにっこり笑っている。出征してゆく人が穏やかに笑って、とても平和に見える。どうして、こんなにやさしい絵が描けるのだろうか。

 龍朗さんはフィリッピン・ルソン島で戦死、二十四歳であった。俊朗さんは南方へ向かう輸送船の爆沈で戦死、二十一歳だった。

 ルソン島と言えば、以前習ったお茶の先生のご主人もルソン島で戦死した。後年、慰霊のためルソン島を訪ね、その時拾って来た砂を焼き込んだ抹茶茶碗をいただいた。ルソン島の戦場を思い、波の音を聞きながら、鎮魂のお茶をいただいたことだった。

 ガダルカナル島、サイパン島、ルソン島、レイテ島、マリアナ諸島。いつもは、名前を聞いてもすぐ忘れてしまう。激戦の地が、今はっきりと記憶されたと思う。

 

平和な時代に生きて

 

 ガラスケースの中の瓢箪の型の木彫りの帯留めは小さいけれど存在感があった。この作品を作った人は石巻市出身の高橋英吉さんである。戦地に向かう船上で流木に彫った絶作『不動明王』は、応召直前に生まれた娘の産着用にと、寄港先のジャワ島でもとめた大きな白い布といっしょに、従軍記者に託されて夫人に届けられた。私の鯖江に住む友人は、この綿布にくるまった娘さんと親しいという。英吉さんの海をテーマにした他の大きな作品は、石巻文化センターに展示されているらしい。いつか訪ねてみたいと思っている。こんな風に、《無言館》から発信された人と人とのつながりは、身近かなところに、広がってゆくだろう。

 東隣の蔦のからまった信濃デッサン館も訪れた。展示された燻し銀のようなデッサンも、見ていて心が癒されるものだった。

 テラスでお茶を飲み、遠くに見える山々と塩田平を眺めながら、このおだやかな塩田は無言館にとても相応しい地だと思った。帰りもまた急な坂を二度曲り塩田の駅へと歩いて行った。無念にも戦死したが学生たちにもらった青春の情熱に後押しされたのか、帰りは三十分程で駅に着くことができた。行きには目につかなかったが、刈田の土手に野生の赤いホオズキを見つけ、何本か抱えて帰った。晩秋の今も、玄関に飾られたホオズキの色は赤くて暖かい。

 無言館への道をバスやタクシーを使わず、行きも帰りも歩いたことは意味のあることだったと、今しみじみと思っている。

 その夜は、別所温泉に泊まった。昔ながらの別所温泉駅には、懐かしい丸窓の古い電車が置かれていた。小雨模様の中、急いで淡彩のスケッチをした。平和な時代に生きて、絵が描ける幸せを感じながら。

 

 

参考文献

 

 芸術新潮 一九九七年七月号

    『戦地から帰った絶作《不動明王像》』

 

              

(完)

(一九九九年十二月)