エミール・フィッシャーの講堂と化学研究所

 

武山高之(2014.10.20)

 

西村さんのエミール・フィッシャー講堂訪問記に便乗して、エミール・フィッシャー講堂(化学研究所)について纏めました。

 

まず、次の著書に簡潔に纏められているので、紹介する。

潮木守一著『ドイツ近代科学を支えた官僚‐影の文部大臣アルトホーフ‐』(中公新書)64ページ、『フィッシャーの「王国」』から

 

――エミール・フィッシャーがベルリンへの移転の際、プロイセン政府との交渉の結果、手に入れたのは、1万400平方メートルの敷地に建てられた3060平方メートルのビルであった。これが、彼が主宰するベルリン大学化学研究所(Chemisches Institut)であった。そのビルの中には座席500名、110名、34名の3つの講義室のほか、144名収容可能な化学分析部、96名分の有機化学部、50名分の私用実験室が設けられていた。さらにはそのビルのなかにはフィッシャー一家が住む所長官舎まで含まれていた。この化学研究所を要した建設費は158万マルク(現在価格で約13億円)にまで達したという。――

 

 これは。まさに西村さんが記載しているフィッシャー講堂(研究所)とフィッシャー・ハウスであろう。

この強力な研究所からは後世に影響を残す大きな成果が得られている。この成果をノーベル賞受賞者の立場から見たものが下記の表である。ここに挙げたノーベル賞受賞対象は、フィッシャー自身の業績も含め、ディールスとアルダーの業績を除くと、全て生化学の業績である。

フィッシャーは生化学の源流のような位置づけであることが分かる。また、受賞分野は、化学賞よりも生理学医学賞の方が多い。

フィッシャーの研究所の位置は、大学の医学部や病院のあるシャリテーの隣にある。この位置は、化学と医学の共同研究には適していたであろう。生化学の発展に最適であった。フィッシャーの銅像はシャリテーの中のロベルト・コッホの像があるコッホ広場のすぐ近くにあるのも、意味がありそうだ。

受賞者のうち、*をつけたものはマイヤーホフに繋がるもので、全てが生理学医学賞受賞である。また、マイヤーホフに繋がる受賞者は全てアメリカ国籍かフランス国籍でドイツ国籍のものはいない。

これには、ベルリンが戦争により破壊され、ドイツの敗戦と東西分裂などの様々な歴史要因が考えられるが、マイヤーホフ自身がユダヤ人で、ナチスの迫害から逃れるために、ドイツの研究所を離れた影響も大きいと思われる。

 エミール・フィッシャーに繋がるノーベル化学賞・医学生理学賞受賞者

1900〜39 ドイツ帝国・

ワイマール共和国時代時代

194455 第二次大戦後(1)

1956〜 第二次大戦後

(2)

エミール・フィッシャー(‘02

糖類およびプリン誘導体の合成

マイヤーホフ*(V22医)

筋肉における乳酸の生成と酸素消費の相関関係の発見

ヴィンダウス(‘28

ステロール類の構造とそのビタミン類との相関性

ワーブルグ(‘31医)

呼吸酵素の特性および作用機構の発見

ブーテナント(‘39

性ホルモンに関する研究

ディールス、アルダー(‘50

ディールス・アルダー反応

クレプス(英)(‘53医)

クエン酸回路の発見

リップマン(米)*(‘53医)

 代謝における高エネルギーリン酸結合意義および補酵素Aの発見

テオレル(スエーデン)(‘55医)

酸化酵素の研究

 

オチョア(米)*(1959医)

RNAおよびDNAの合成

ルヴォフ*、モノー*、ジャコブ(仏)*(‘65医)

酵素およびウイルスの合成の遺伝子調節

ヴォルト(米)*(‘67医)

視覚の化学的生理学的基礎過程

ネイサンズ(米)*(‘78医)

制限酵素の発見と応用

広田襄『現代化学史』(2013年、京都大学学術出版)を参考にした。

赤字はドイツ以外の国籍。*はマイヤーホッフに繋がる。

   網かけは生理学医学賞。

 

このフィッシャー講堂の正面には、エミール・フィッシャーのほかに、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーの顕彰パネルがあった。

オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーは核分裂反応の発見で知られている。有機化学が中心であったフィッシャーのグループとしては、異質の存在である。ここには、短い紙面では語りつくせないような物語があった。

オットー・ハーンは後にノーベル化学賞を受賞している。しかし、マイトナーは当時の複雑な政治的事情に翻弄されて、ノーベル賞を受賞することはなかった。次の文献にそのあたりの事情は詳しく書かれている。

 

広田襄『現代化学史』(京都大学学術出版会、2013282283ページ『核分裂反応発見におけるハーンとマイトナーの貢献』から

 

――エミール・フィッシャーの化学研究所の助手だったオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが出会ったのは、1907年だった、――

――当時の化学研究所は女人禁制であったが、マイトナーは以前、木工室であったハーンの放射線測定室だけには例外的に出入りが許されていた。(1年後にはドイツでも女性の大学入学が認められ、フィッシャーの研究室も女性に開かれた。)――

――1912年にハーンは新設されたカイザー・ヴィルヘルム研究所の放射化学主任になった。1913年にはマイトナーもそこに移った。――

――1913年には、ユダヤ人の血が混じったマイトナーはナイスを逃れて、研究所を離れた。――

 

ハーンとマイトナーの顕彰パネルはダーレムの旧・カイザー・ヴィルヘルム化学研究所の壁面にもあった。フィッシャー・ハウスの前にたむろしていた女子学生たちは、このマイトナーの翻弄された人生を知っているのだろうか?

 マイヤーホッフとマイトナーがユダヤ人であったと述べた。

ウィキペディアで調べてみると、ドイツ人ノーベル化学賞受賞者のうち、バイヤー(1905年)、ヴァラッハ(1910年)、ヴィルシュテッター(1915)、ハーバー(1918年)はユダヤ人とされている。関連する生理学医学賞受賞者では、エールリッヒ(1906年)とマイヤーホッフ(1922年)がユダヤ人とされている。

 

写真1 フィッシャー講堂の正面にあったフィッシャーとマイトナーの顕彰パネル

 

写真2 フィッシャー講堂の正面にあるハーンとマイトナーの顕彰パネル

 

写真3 フィッシャー・ハウスの前の女子学生たち

 

写真4 3階にある大講堂の入口。Hoersaalの看板がかかっていた。