化学者オストヴァルトの業績

武山高之(2014.10.21)

 

西村さんのオストヴァルト記念館訪問記に便乗させてもらい、オストヴァルトの業績につき、付け加える。

 

オストヴァルトは1909年に、「触媒作用に関する研究および化学平衡と化学速度に関する研究」で、ノーベル化学賞を受賞している。

物理化学を専攻していた私にとっては、馴染みの化学者である。なかでも、私たち高分子材料を研究していた者は「オストワルド粘度計またはその改良型」を日常的に使っていた。

 

オストヴァルトの化学者としての偉大さを示すのに、よい材料が岩波文庫にある。

オストワルド著、都築洋次郎訳『化学の学校 上』(岩波文庫、昭和27年)である。この訳者解説に、都築洋次郎は次のように書いている。

 

――この時代におけるオストワルドの著作者、組織者としての驚くべき活動もまたその内容の圧倒的な大きさとその影響の甚大さのゆえに到底ここに簡単に述べることができない。我々は過去においてかような類例を求むれば、僅かに有機化学の創設者リービッヒの名をあげ得るのみである。両者の活動がともに化学の領域を越えて化学工学、医学、生理学、生物学、農芸化学の発展に決定的役割を演じている点もかなり興味深い。――

 

都築は、「オストヴァルトの業績をリービッヒに匹敵するもの、あるいはそれ以上のもの」として称賛しているのが、注目される。

 この本を読むと、オストヴァルトは化学の初学者への教育にも熱心だったことが窺える。この本の「初版の序文」にオストヴァルトは次のように書いている。

 

この小著を書いた動機として、故シュッテックハルトの著『化学の学校』に対して今日なお感じるところの謝恩の情に根ざすものである。

 

化学史を学ぶ者には馴染みであるが、このシュテックハルトの『化学の学校』は、日本では蕃書調所の川本幸民が翻訳し、1861(文久元年)に『化学新書』として、纏めた本の原本である。

この原本は、バイヤー、オストヴァルト、エミール・フィッシャーらが若い日に学んだことが知られているが、オストヴァルトは彼自身の『化学の学校』の序にこのことを書いていることは興味深い。

オストヴァルトの影響が後世にどのように伝えられたかを示すために、彼の弟子、孫弟子の中から、ノーベル化学賞受賞者を下表にまとめた。

 

オストヴァルトに繋がるノーベル化学賞受賞者

1951年まで)

1900〜 ドイツ帝国時代

1918〜 ワイマール共和国時代

1944〜 第二次大戦後

オストヴァルト1909

 触媒、化学平衡と反応速度

アレニウス(スエーデン)1903

 電解質溶液の理論

リチャーズ(米)1914

 原子量の精密測定

ネルンスト1920

 熱力学第3法則など熱力学の研究

オイラー1929

 糖類の発酵と関連する酵素

ベルギウス(1931)

 高圧化学的方法の発見と開発 

ラングミュア(米)1932

 界面化学における発見と研究

ジオーク(加)1949

 化学熱力学、とくに極低温における熱力学

シーボーク(米)1951

 超ウラン元素の発見

ギーセン・リービッヒ博物館資料から編集。赤字はドイツ以外の国籍。

 

 いずれも、物理化学分野で名の知れた人たちである。ドイツ帝国時代の受賞者はオストヴァルトの弟子たちであり、その後は孫弟子たちである。オストヴァルトの影響は、ドイツが第一次大戦に敗戦した後も、続いていることが分かる。また、その影響はドイツ国内だけでなく、北欧やアメリカ大陸にまで及んでいる。

 ベルギウスはアンモニア合成のハーバー・ボッシュ法で有名なボッシュとともに、1931年のノーベル化学賞を受賞している。ハーバー(1918年、ノーベル化学賞受賞)もオストヴァルトの下での研究をしたいと希望していたというが、実現していない。(注:渡邊、化学史研究 36 2362009))

 

 最後に、明治時代にライプチヒに留学した日本人の中で、よく知られた人を挙げておく。

 

明治時代にライプチヒに留学した日本人

1881年〜)森林太郎・鷗外(ペッテンコーファーの弟子のホフマン教授に師事。衛生学)、

1886年〜)中浜東一郎(ジョン万次郎の長男で、同上のホフマン教授に師事。衛生学)

1889年〜)池田菊苗(ライプチヒ大学オストヴァルト教授に師事。化学)、

1899年〜)大幸勇吉(ライプチヒ大学オストヴァルト教授に師事。化学)

1901年〜)滝廉太郎(メンデルスゾーン創立のライプチヒ音楽院に学ぶ)

 

 中浜東一郎はジョン万次郎の長男で、父親から英語を習っていたというが、留学先は当時の科学の先進国ドイツを選んでいる。滝廉太郎は音楽の街でもあるライプチヒに留学し、我々に馴染みの名曲を残している。

 オストヴァルトについては、上記の池田、大幸のほかに、桜井錠二が交流を持っていた。研究のこと以外に、化学教育や物理化学の日本への導入について意見を交換している。(菊池、化学史研究 24 2321997))