平成261010日修正

西 村 三千男

連載「余談・ドイツ化学史の旅・パート4

5回 数々の幸運(その2

 

1. ホフマンの墓碑・ドローテン市営墓地(6/16)

2. フリッツ・ハーバー研究所(FHI)の案内は大物教授(6/17)

 

3. アルトホ−フ(F.Althoff)胸像(6/18)

 

旅の事前準備は不充分でも、旅の収穫は充分であった。初日と2日目の計画を順調に消化して、3日目は何をするか。木下家、文野家は別行動。残る伊藤家、武山家、西村家の6名で相談。アルトホ−フ像(注記3)とエミール・フィッシャー講堂(注記4)を訪ねることにした。「アルトホーフは一般市民でも聞けば知っているだろうが、エミール・フィッシャーは無理かもしれない.ならば、先ずシャリテー内のアルトホーフ像へ行き、その後シャリテー内を歩いている学生か先生にエミール・フィッシャー講堂へのアクセスを聞く作戦としよう.」

 

この作戦はズバリ的中した。タクシー運転手がアルトホーフ像を知っていて、シャリテー南門を入って直ぐの胸像へピタリと着けてくれた。ドイツを科学大国へ育てた大物文部官僚アルトホーフの名は日本ではあまり知られていないが、ベルリンのタクシードライバーが知っていた。胸像の周囲でパチリパチリと記念撮影した後で、シャリテー構内の通行人(男女の大学院生?)に、エミール・フィッシャー講堂の場所を聞くと適確な返事が得られた。「真っ直ぐ進んで、突き当たりを道なりに右折して2つ目の交通信号の地点が目標である.」と。

 

4. エミール・フィッシャー講堂(Emil-Fischer-Hoersaal) (6/18),

 

    目的のビルは(Hessische Straße 1-2, 10115 Berlin)古色蒼然と存在していた。メンテナンスされていないのか荒れている。建物の前で喫煙談笑している女子学生に「これはEmil Fischer’s Museum か?」と聞いた。彼女たちは無愛想に「No」と答えた。建物の周囲をグルグル点検すると、Historische Gebauede//Humboldt Uni.の標識、Otto HahnLise Meitnerのプレートは掲示してあるが、Emil Fischerの表示が見あたらない。案内人は居ないので勝手に、右手の大きなビルの3階に上がると、大講義室(Hoersaal)と表示して、ロックされた階段教室?があった。門のところへ戻って、先ほどの女子学生に再度「この建物は何か?」と尋ねると、「Emil Fischer’s House.」と平然と答えた。帰国後、調べたら、入門して左手前の独立した建物は旧「化学科長邸宅」であった。

門を出てHessische Straße右に隣接する大きな建物は大勢の学生が出入りしていた。Humboldt Uni. の付属図書館・北分館と北部キャンパスの食堂(MENSA)であった。

                                (つづく)

 

注記3 アルトホーフ・Friedrich Althoff (1839-1908)。陰の文部大臣と称される程の辣腕文部官僚。大学の予算や教授人事までも左右した。20世紀初頭、ドイツがノーベル賞を多数受賞したのにも陰で貢献したとされる。日本ではあまりその名を知られていないが、武山さんが「旅・パート3」の解散夕食会(2010.6.11@ミュンヘンHBハウス)でアイソマーズ仲間に紹介し、熱く語った。帰国後、その紹介を含めた総説をアイソマーズ通信に投稿、掲載された。

日本の留学生たちが学んだドイツの化学「ドイツ化学史の旅」および政治体制の視点から(http://isomers.ismr.us/isomers2010/from_German_Chemistry_rev.htm)

 

注記4 1892年、エミール・フィッシャー(Emil Fischer)40歳の若さで、ホフマンの後任としてベルリン大学化学科長に招聘された。招聘を受諾する条件であった化学教室新築は8年後に実現(1900)。地階付き3階建て、大講堂や化学科長の邸宅をも併設した豪華な教室であった(Hessische Straße 1-2, 10115 Berlin)鈴木梅太郎がエミール・フィッシャーの許に留学したのは19031906であるから、この新築教室であった。1945年に空襲で破壊され、戦後再建され、1953年から「エミール・フィッシャー講堂(Emil-Fischer-Hoersaal)」と命名された。2011年からはフンボルト大学付置の教育訓練学校に転用されたらしい。

写真1 DSCF7239 シャリテーにあるアルトホーフ像

写真2 DSCF7262 エミール・フィッシャー講堂