平成261029

西 村 三千男

連載「余談・ドイツ化学史の旅・パート4

11回 ドイツ帝国物理工学研究所とヘルムホルツ (その1)

 

旅・パート4相談した席(2013.6.27@上野・韻松亭)で西村は「ドイツ帝国物理工学研究所」を往訪しようと提案した (http://isomers.ismr.us/isomers2013/kagakushinotabi_final.htm ) が、反対意見も積極的な賛成意見も出なかった。当方も更に強く主張するだけの根拠情報を持っていなくて、その件はそのまま立ち消えとなった。

 

手許に、一冊の「放送大学の教科書」(引用文献 1.)を持っている。往訪先に「ドイツ帝国物理工学研究所」を提案した発想の元はこの教科書/中島秀人著「社会の中の科学」 の記述であった。全体15章の中で本稿に関連している第11章の目次の一部を下に示す。

11――国家と科学技術

11.2 ベルリン大学の発足

11.3 ドイツの技術者教育

11.4 帝国物理工学研究所の設立

11.5 カイザー・ヴィルヘルム協会

本稿のテーマに関係するのは「11.4 帝国物理工学研究所の設立」である。この章の他の項目も「ドイツ化学史の旅・パート4」には関連している。これら4項目を僅かな紙幅に簡潔に記述している。

 

19世紀初頭のプロイセンでは、国家の近代化と統一を目標に、教育と研究の改革と充実を図ろうとしていた。その国家戦略の第一弾はベルリン大学創設(1810)であった。それから60年を経て、普仏戦争に圧勝し、大ドイツへ統一を果たした後の時代の要請から、第二弾「ドイツ帝国物理工学研究所」(PTR, Physikalische Technische Reichsanstalt)が設立された(1887)

 

ベルリン大学発足(1810):ベルリン大学以前、ヨーロッパ各国の中世的な大学では、聖職者を育てる「神学部」、医者を育てる「医学部」、役人を育てる「法学部」が主流で、自然科学は人文科学と引っくるめて傍流の「哲学部」に押し込められていた。新しい理念で創設されたベルリン大学では「哲学部」を中核において学問(Wissenschaft)を追究する場とし、研究と教育が統一された。

ベルリン大学は、人文系学部はいち早く充実したが、設立から数十年経っても自然科学系の充実が立ち遅れていた。化学科長にはイギリス帰りのホフマン(1818~92)が就任(1865)、物理学科教授にヘルムホルツ(1821~94)が指名されたが(1871)、着任は大幅に遅れた(1878)。どこの国でも、いつの時代でも、大国の首都の代表的大学の教授は研究以外の政治・行政的な用事、社交的な用事が多い。また、首都の大学へは学生が集中するので教育の負担も多くなる。相対的に研究活動は疎かになる。それらの負担を断ち切って研究に専念出来る研究機関として「国立物理工学研究所」が構想された。

 

大学の外に、教育の義務を課さない(物理学の)研究所を設置する構想は、1872年から15年に及ぶ長い論争の末に、やっと実現した。大学の枠外に研究機関が生まれることを、産業界は歓迎したが、学界の既存勢力であるベルリン科学アカデミーや大学は激しく反発したのであった(引用文献2)。合意に漕ぎつけるのに、科学界の実力者へ成長中であったヘルムホルツと電機業界の大物産業人ジーメンス(1816~92)のコンビの多大なる貢献があった。その経緯は次回述べる。

 

この研究所は、当時の最先進工業国であったイギリス、新興工業国として急成長中であったアメリカなど先進諸国が、類似の大規模な国立研究所を設立する先行モデルとなった。

PTRは、現在も「連邦物理工学研究所」(PTB, Physikalisch-Technische Bundesanstalt) と改名して、度量衡を司る公的研究所として存続している。

つづく)

 

引用文献 1.  中島秀人著「社会の中の科学」(放送大学教育振興会、2008 A5 220P)      

(A58ページ、P144~151)

 

引用文献 2.  情報管理 WEB Vol.40(No.9) pp817-819 (Dec.1997)

有本建男“科学技術の体制を築いた人々 9.

「ドイツ帝国物理工学研究所とヘルムホルツ」

(https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/40/9/40_9_817/_pdf)