平成261029

西 村 三千男

連載「余談・ドイツ化学史の旅・パート4

12回 ドイツ帝国物理工学研究所とヘルムホルツ (その2)

 

前回述べた通り、帝国物理工学研究所(PTR)1872年から15年間議論して、やっと1887年に実現した。その頃の時代背景を概観しておこう。

●プロイセンは普仏戦争に圧勝し、直後に統一ドイツとなった。プロイセンの首相であったビスマルクがドイツ帝国の初代宰相となった。

●普仏戦争の講和条件として、地下資源(石炭、鉄鉱石)の豊富なアルザス・ロレーヌ地方をフランスからドイツ領に編入した。それと並行してルール地方の石炭炭坑も開発を進めた。ドイツ西部に、石炭、製鉄、機械工業、兵器産業などの一大工業圏が形成されていった。

●ドイツはタール系合成染料開発競争で英仏に圧勝(1856~1871)して、化学工業立国に成功した。国力が充実し、工業大国、経済大国、軍事大国へと急成長を続けた。

●英国に約10年遅れて鉄道網建設が着々と進んでいた。新エネルギーの電気は様々な動力源として用途と技術が開発され、徐々に使われ始めた。照明の光源としては白熱電球が未完成で、照明は依然としてガス灯が主流であった。

●化学では大学の研究成果が化学産業に直接役立っていた。一方で大学の物理学は、機械工業や兵器産業の大量生産システムに関する産業界ニーズに即応出来なかった。産業界は直ぐに役立つ研究成果を生み出す(大学以外の)研究所を欲した。

 

第1回国際電気会議(1881年、@パリ) はドイツの産業界と学界に大きなインパクトを与えた。 この国際会議において、電気の単位やガス灯の照度の測定法と単位を統一する協議を行った。先進工業大国イギリスや斜陽停滞中のフランスが主導権を握り、新進工業国ドイツの主張は概ね退けられた(引用文献4)。ドイツを代表して出席していたヘルムホルツとジーメンスは、ドイツがこの種の国際協議で自国の工業力に相応しい発言力を備えるべきだと痛感した。そのためには理論武装に役立つ物理学研究、殊に度量衡に特化した研究が重要であると認識し、そのための新しい研究所の実現を主張するようになった。ジーメンスは政府に対して新研究所を実現するための建設用地と資金の寄付を申し出た。引用文献4にはジーメンスの建白書(1884320日付け、枢密顧問官・ジーメンス博士の記名) の全文が和訳収載されている。長年の議論の末に1887年に設立された「ドイツ帝国物理工学研究所」(PTR, Physikalische Technische Reichsanstalt) は、ヘルムホルツを初代総長として、第一部「物理部」と第二部「工学部」とから成っていた。

 

ジーメンスは1870年頃、ハイデルベルクでヘルムホルツと知り合った。彼をベルリン大学の教授へスカウトした。その後、ジーメンスの娘とヘルムホルツの長男、Robert v. Helmholtz とは結婚している。ずっと後年、20世紀初頭のことであるが、エミール・フィッシャーが「帝国物理工学研究所(PTR)」をモデルにして、その化学阪を構想したのが「カイザー・ヴィルヘルム協会(KWG)設立の発端となった逸話がある(引用文献3)。このことの詳細は別の回に述べよう。

つづく)

 

引用文献 3.  情報管理 WEB Vol.41(No.7) pp540-542 (Oct.1998)

有本建男“科学技術の体制を築いた人々 19.

「カイザー・ヴィルヘルム協会とエミール・フィッシャー」

(https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/41/7/41_7_540/_pdf)

 

引用文献 4.   天野清 「国立物理工学研究所設立の歴史」

      (http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/AmanoKiyoshi/kokuritu-kenkyujyo-utf.pdf)