平成26115

西 村 三千男

連載「余談・ドイツ化学史の旅・パート4

13回 カイザー・ヴィルヘルム協会とエミール・フィッシャー

 

19世紀末、ドイツを代表する科学者であったヘルムホルツが亡くなった(1894) 後、ドイツ科学界の次の時代の実力者となったのはベルリン大学・化学科長のエミール・フィッシャーであった。ノーベル化学賞受賞(1902)等の輝かしい業績をあげたフィッシャーについては多数の伝記が書かれている。本連載第4回では「エミール・フィッシャー講堂」訪問に触れた。また、フィッシャー人脈のノーベル賞受賞者等について武山さんのレビューがHPに掲載されている。今回は「カイザー・ヴィルヘルム協会」設立とフィッシャーとの関わりについてのみ述べる。

 

前回の末尾に『・・・フィッシャーが「帝国物理工学研究所(PTR)」をモデルにして、その化学版を構想したのが「カイザー・ヴィルヘルム協会(KWG)設立の発端となった・・・』と述べた。PTRはフィッシャーがベルリン大学化学科長に就任する(1992)より数年前に発足していた(1887)。予てより、大学の教育負担義務が研究活動を相対的に疎かにしていることを憂慮していたフィッシャーは、化学系にもPTRのような教育義務のない研究所を設立しようと主張していた。1896年、文部官僚・アルトホーフと謀って、アムステルダム大学からファント・ホッフ(van’t Hoff, 1852~1911) をベルリン大学教授に迎えたが、教育と管理業務の嫌いなファント・ホッフのためにベルリン大学での教育負担を極少化して、ベルリン科学アカデミーにも兼務の研究ポストを準備したと言われる。

 

その頃、新興国アメリカは科学技術振興でドイツを猛追撃し始めた。ドイツに較べて関連国家予算が少ないことに危機感を抱いて、石油のロックフェラー、鉄鋼のカーネギー、鉄道のスタンフォードなどの超大富豪が科学技術振興を支援する財団を設立した(18901902)。また、ドイツ化学工業の企業内研究所の成功に刺激され、米国巨大企業内にも研究所設置が続いた{GE(1900)、ダウケミカル(1901)、デュポン(1902)}。そのアメリカの民間活力に、また逆にドイツが刺激されるという・・・独米間のビッグサイエンス開発競争の構図となった。ドイツの文部官僚アルトホーフは、科学技術においてドイツが漸く築いたトップランナーの地位を維持してゆくために、ベルリン郊外ダーレムに研究都市を造ろうと構想していた。既存勢力の大学や科学アカデミーの猛反発を受けている間にアルトホーフは死去した(1908)

 

フィッシャーは、このダーレムの用地に「物理工学研究所(PTR)」と同様に、教育義務のない(化学の)研究所を設立したいと考えた。神学者で自然科学の理解者でもあるアドルフ・ハルナック(Adolf von Harnack , 1851~1930) (ベルリン王立図書館長、ベルリン科学アカデミー会員、夫人はリービッヒの孫娘) (引用文献3.)の協力を得て、「カイザー・ヴィルヘルム協会(KWG)」を設立(1911)、ハルナックが初代会長に、フィッシャーは実行委員長会となった。翌年(1912)、先ず2つの研究所、即ち「化学研究所」と「物理化学・電気化学研究所」が誕生した。フィッシャーはこれらの設立当初の人事に関わった。その後、この協会(KWG)は、化学分野に限定せずに、他の自然科学分野と一部は社会科学分野をも含んだ広範な研究所群を運営することになった。

つづく)

 

引用文献 1.  情報管理 WEB Vol.41(No.7) pp540-542 (Oct.1998)

有本建男“科学技術の体制を築いた人々 19.

「カイザー・ヴィルヘルム協会とエミール・フィッシャー」

(https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/41/7/41_7_540/_pdf)

 

引用文献 2.  島尾永康 和光純薬時報 Vol.73, No.2(2005) p.23~27

      化学大家399  「エミール・フィッシャー(1852.10.9~1919.7.15)

引用文献 3.  http://de.wikipedia.org/wiki/Adolf_von_Harnack