フリッツ・ハーバー研究所の科学者たちと日本との関係

武山高之(20148月記)

 

カイザー・ヴィルヘルム化学研究所とフリッツ・ハーバー研究所

今回、ベルリン郊外のダーレムで訪れたのは、マックス・プランク協会フリッツ・ハーバー研究所(もとカイザー・ヴィルヘルム協会物理化学・電気化学研究所)と旧カイザー・ヴィルヘルム協会化学研究所の2か所である。ともに1912年創立で、今年は創立102年である。

フリッツ・ハーバー研究所(以下、FHI)の受付の紹介で、案内して頂いたのは、FHIのFriedrich教授である。彼は分子間力に関する基礎研究者であるが、あとで、教授自身からメールで送って頂いた“One Hundred Years of the Fritz Haber Institute”によると、「FHT百年史」の編集責任者でもある。我々は最適者の人に案内してもらって,FHIと化学研究所を見学することができたことになる。

化学研究所は第二次世界大戦で破壊されていたが、100年前の姿に完全に再建されていた。(100年前の姿は“the Kaizer Chemists”の本に残っている。)

 

100年前のもともとの計画では、まず化学研究所をつくり、次に生物学研究所、3番目に物理学研究所を作る予定だったという。資金が最初に集まったのが化学研究所だったからである。化学研究所は有機化学、無機化学、物理化学の3部門が計画されていた。ところがまだ予算が不足していた。そこで、コッペル財団からFritz Haberのためにカイザー・ヴィルヘルム協会物理化学・電気化学研究所を作る案が提案なされた。コッペルはユダヤ人であり、同じユダヤ人のFritz Haberを支援するという縁があったという。

その結果、化学研究所から物理化学部門が独立し、代わりに放射能部門が入ることになった。以上が、化学系の二つの研究所の分離過程である。

 

(文献)

潮木守一『ドイツ近代科学を支えた官僚‐影の文部大臣アルトフーフ』(中公新書、1993168177ページ)

Jeffrey Allan Johnson “The Kaiser’s Chemists” (The University of North Carolina Press1990

 

以下、Friedrich教授から送付頂いた「FHI100年史」について、私の関心がある点をピックアップした。

まず、FHIに関係のあるFritz Haber(アンモニア合成)、Max von Laue(結晶解析)、Ernst Ruska(電子顕微鏡)、Heinrich Wieland(有機化学、胆汁酸の構造決定)、Michael Polanyi(物理化学) 、Herbert Freundlich(コロイド化学、表面化学)、Gerhard Ertl(アンモニア合成触媒作用機構の解明)の7名の科学者について、日本との関係等に重きを置き、紹介する。

 彼らの名前または業績は、科学史上重要なものばかりで、私自身も以前から知っていたが、いずれもFHIと縁があることは、今回初めて知った。彼らの主業績が必ずしもFHIで行われたものではないが。

 

1.Fritz Haberと空中窒素固定によるアンモニア合成

Fritz Haber1918年に、空中窒素固定のアンモニア合成法によりノーベル化学賞受賞。

 

まず研究所の名前の残るFritz Haberからすすめる。Fritz Haberがカールスルーエ工科大学で、空中窒素固定法によるアンモニア直接合成に実験室規模で成功したのは、1909年である。BASFの冶金技術者Carl Boschが参加し、BASFが工業化に成功したのが、1911年である。

 

このアンモニア合成の研究には、日本人化学者・田丸節郎が大きな貢献をしている。このことは「FHI百年史」にも大きく取り上げられている。

田丸は第一次世界大戦が勃発すると、日本とドイツが敵対国という関係からドイツを離れ、しばらくアメリカにいて、その後、日本に帰国し、理研創立に貢献した。ビッグネームが並ぶ次に示す理研最初の14人の主任研究員の一人である。以下、年功順。

長岡半太郎池田菊苗鈴木梅太郎本多光太郎真島利行、和田猪三郎、片山正夫大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高嶺俊夫、飯盛里安、西川正治

 

(参考文献)宮田親平『科学者たちの楽』(文芸春秋、1983)

 

第一次世界大戦後、ハーバー・ボッシュ法の特許権は賠償金の一部となった。

空中窒素固定のアンモニア合成法は、わが国ではBASFに遅れること約10年後の1923年(大正12年)に、日本窒素肥料(現旭化成)が延岡にイタリアのカザレー法で、続いて鈴木商店(のち、三井東圧、現三井化学)が1923年末に彦島でフランスのクロード法で実現した。

さらに、1928(大正3)大日本人造肥料(現日産化学)がイタリアのファウザー法による国産化を開始した。

その後、第二次大戦が始まるまでに、朝鮮窒素肥料、昭和肥料(昭和電工)、住友肥料製造所(住友化学)、三池窒素工業(三井東圧化学)、矢作工業(東亜合成化学)、宇部窒素工業(宇部興産)、満州化学工業、新潟硫酸(東洋合成)、日本タール工業(三菱化成)、多木製肥所(製鉄化学)、大日本特許肥料(日東化学)、日東化学工業(日東化学)、帝国高圧工業(東北肥料)、日本水素工業(日本化成)の14社に生産が拡大された。

空中窒素固定のアンモニア合成法が当時のわが国の化学産業に大きなインパクトであったことが窺える。

 

(参考文献)国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第12集 牧野功。

 

2.Max von LaueとX線結晶学

 Max von Laue1914年ノーベル物理学賞受賞。

2014年は「世界結晶年」である。これはMax von LaueイギリスのBragg父子(1915年ノーベル物理学賞受賞)の1912年〜1913年に始まるX線結晶学の100年の歴史を祝したものである。

 X線結晶学の始まりは、191268日の「ラウエの斑点」の発見である。

Bragg父子はラウエの発表に速やかに接し、すぐに研究をはじめ、Nature Letter19121014日、1128日、13710日に3報を掲載している。 

日本との関係では寺田寅彦が挙げられる。寺田寅彦はLaueの論文を4か月遅れの10月に入手し、すぐに研究をはじめ、13410日と51日にNature Letterに掲載している。Bragg父子とは独立して研究を始めたが、僅かにBragg父子に遅れをとり、ノーベル賞を逸したが、学士院賞を受賞している。

 地理的にも設備的にも劣った条件のもとで、Bragg父子とほぼ同時期に成果を挙げていることは注目に値する。しかし、寺田はこののち、基礎研究から応用研究に移った。

 

(参考文献)高分子 163 446465(2014)「特集 高分子構造の原点を知る‐世界結晶年2014を記念して‐」。

 

 いまやX線結晶学は物質科学・生命科学において必須の技術になっている。

 私自身は、融点の低いナイロン6をタイヤコードに使うときにその熱安定化のために結晶解析の基礎研究者との共同研究が欠かせなかった。

ただし、私自身は結果だけを活用させて貰ったが、結晶解析の手法は知らない。

ポリエステルタイヤコードの開発の時は、結晶長周期の制御が大切であり、ここでも基礎研究者との共同が必要であった。繊維の結晶解析が、実用的に最も役に立ったのは、タイヤコードの改良研究であった。

 LaueがFHIと関わりがある研究者であることは知らなかった。

 

3.Ernst Ruskaと電子顕微鏡

Ernst Ruska 1986年ノーベル物理学賞受賞。

電子顕微鏡の開発は1932年のKnollRuskaの発表に始まる。

日本での電子顕微鏡の歴史は1939年には大阪帝国大学。京都帝国大学の試作機が開発され、それと併行して東京芝浦電気・日立製作所・日本電子・島津製作所の商業用電気顕微鏡の発表が行われた。以来、日本は電子顕微鏡で先進国であり続けている。

 

(参考資料)磯田正二 高分子 63 4552014)「電子顕微鏡と高分子結晶」

 

電子顕微鏡も材料科学、生命科学で必須の手段であり、私自身も透析膜開発、医療用吸着カラムの開発に当たっては、日常的に電子顕微鏡による観察を頼んでいた。RuskaとFHIの関係は今回初めて知った。

 

4.Heinrich Wieland と星野敏夫教授

 Heinrich Wieland は胆汁酸の構造決定で、1927年にノーベル化学賞を受賞。

対象となった研究はミュンヘン大学でなされた。

 胆汁酸はステロイド構造を持つ複雑な化合物で、1920年代における構造決定は大変革新的なものだったであろう。

 

1927年にミュンヘン大学のWielandのもとに留学したのは、星野敏夫である。星野は東北大真島利行先生のもとに学んで、日本の有機化学、高分子合成をリードした。私との関係では、星野は東レ初代の基礎研所長であった。

 

5.Michael Polanyi と児玉信次郎教授

Michael Polanyiについては、西村三千男さんが詳しい。

1930年前後に,FHIの物理化学部門を指揮していた。 

アイソマーズとの関係では、児玉信次郎教授が、1930年から2年間、カイザー・ヴィルヘルム研究所に留学している。

記録によると喜多先生から依頼してあったMichael Polanyi教授を訪ねると、教授の最初の質問は「君は量子力学を知っているか」であったという。量子力学がハイゼンベルクによって1925年に、シュレージンガーによって1926年によって体系化された直後のことであった。

 

(参考文献)米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺‐福井謙一博士と京都大学の自由な学風』(化学同人、1999)63ページ。

 

 児玉はベルリン大学のコロキウムに出席し、ネルンスト、プランク、ラウエ、バーシェン、シュレージンガーらの歴史的な大学者が最前列に座って議論する姿を目の当たりにされ、「歴史の歯車が音をたてて回っているような気がした」ほどの感銘を受けたと述べている。

 

(参考文献)関英夫、高分子47巻増刊(1998)s26、日本の高分子科学技術史 人物編「児玉信次郎先生‐石油化学と高分子工業の先覚者‐」)

 

 児玉のこの留学経験は、次の世代の福井謙一教授に引き継がれ、フロンティア電子論という量子化学の分野で、日本初のノーベル化学賞を受賞に繋がった。

 

6.Herbert Freundlichと吸着等温式

Herbert Freundlich1930年前後に、FHIのコロイド化学部門を指揮していた。

FreundlichLagmuir とともに、吸着等温式で物理化学を専攻していた私にはなじみの名前であった。

とくに私は、医療器具の研究開発担当であった頃、医療用吸着カラムや血中蛋白の吸着が問題になった透析膜の開発で、馴染みの概念だった。この概念に助けられて、開発に成功し、懐かしい。

 

7.Gerhard Ertl に感じるドイツ人の粘り強さ

 Gerhard Ertl2007年「個体表面の化学過程の研究」でノーベル化学賞受賞。ベルリン自由大学・ベルリン工科大学教授を歴任、フリッツ・ハーバー研究所研究科長。

 

 Gerhard Ertlというドイツの化学者がノーベル賞を受賞した時に、その受賞内容対象が「ハーバー・バッシュ法の鉄触媒を用いる空中窒素固定によるアンモニア合成のメカニズムを詳しく研究した」ことだと聞いて大変驚いたことを思い出す。

 100年近く前に、先輩化学者が開発したハーバー・ボッシュ法の作用機構を研究し続けているなんて。ドイツ人は何と粘り強いのかと。まさに、「フリッツ・ハーバー研究所100年史」の最後を飾るにふさわしい業績である。

 

(参考文献)広田譲『現代化学史』(京都大学学術出版、2013)498ページ)

 

あとがき

「FHI百年史」に現れる科学者の中から、私自身に馴染みのある人を選んで、日本との関係などを含め、思うことを述べてきた。

我々の「ドイツ化学史の旅」を時代順に追うと、ギーセンのリービッヒ博物館に始まり、ダーレムの研究所で終わった。

最初の「リービッヒ博物館」で購入した資料が19世紀のドイツ化学史を知るのに大変役に立ったが、「FHI100年史」は20世紀におけるドイツ化学史を知るのに、良い資料である。

 FHIに関係した科学者はまだ他にもいるが、私の手に負えないので、どなたか補強して頂くとありがたい。

この百年史を読んでいて感じるもう一つのことに、ナチズム、ユダヤ人排斥、二回の世界大戦、毒ガス、東西分裂などドイツ科学者たちが担った過去に悩まされていたことをひしひしと感じられる。。