2014. 2. 4

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

25 話 ドイツ学事始め(その7 リヒトホーフェン日本滞在記 @ 訳本の紹介)

 

独科学者の幕末明治紀行」・・・これは2014.1.21付け日経新聞文化欄エッセーの見出しである。著者は上村直己・熊本大学名誉教授(ドイツ語学史専攻)。ドイツ人地質学者・リヒトホーフェン男爵が幕末(1860-61)と明治初期(1870-71)に二度にわたって来日し、克明な滞在記を残している。その滞在日記を熊本大学の地理学専攻の大学院生ゼミ等で10年かかりで翻訳し、2013.12月に出版したものを紹介している。

上村直己訳 リヒトホーフェン日本滞在記(ドイツ人地理学者の観た幕末明治)

(九州大学出版会、2013.12.24 )

原著者Ferdinand von Richthofen 男爵(1833.5.5-1905.10.6)は地理・地質学者、中国研究家であり、用語「シルクロード(独:Seidenstrassen、英:Silk Road)」の命名者として知られる。またこのシリーズの

第21話 ドイツ学事始め(その3、遅れて始まったドイツ語学)

http://isomers.ismr.us/isomers2013/lexicon121B.htm

で紹介したネット情報(Wikipedia)の中で日本人学者に電信機の取扱法を教えたドイツ人、その人でもある。本書の「訳者まえがき」に訳者のドイツ学史家としての蘊蓄が次のように披瀝されている。

・・・・・これは独逸学史的に非常に興味深いことだが、日本における最初のドイツ語学者の一人である市川斎宮(兼恭)(1818-1899)が幕府の命を受けて、プロイセン使節から献納された電信機の取扱法を習いに使節の宿舎になっていた赤羽根接遇所に行った際にリヒトホーフェンが応対している。そして大変興味深いことに、市川のドイツ語や人となりについてかなり詳しく言及している(本書p.102p.108参照)。市川自身も自筆日記『浮天斎日記』(東京大学史料編纂所蔵)の中でそのことに言及している。しかし、このとき市川とともに赤羽根接遇所に赴いた加藤弘之については、リヒトホーフェンは彼の名前を挙げていないし殆ど言及していない。市川の方が印象が強かったためであろう。さらにリヒトホーフェンは長崎ではポンペから後に語学の天才をうたわれた司馬凌海(1830-79)を紹介され、簡単だがその印象を記している。・・・・・

リヒトホーフェン自身は原著の中で、1861.1.16(万延元年126)の前日及び1861.1.22の出来事として、2名の日本人学者が献上品の通信機の取扱法を学ぶために来訪したことを詳しく記録している。市川斎宮(兼恭)加藤弘之である。

●市川斎宮(いつき)(兼恭) (1818.6.14-1899.8.26)福井藩砲術師範、幕府天文台蘭学者、蕃書調所教授、

●加藤弘之(1836.8.5-1916.2.9)政治学者、第2代帝国大学総長(1890)

このエピソードはドイツ語辞書がまだ無かった時代のことである。本邦初の独和辞典は、これより10余年後の1872年に、上記引用文末の司馬凌海が編纂し、レーマンが監修して出来上がった事情を本シリーズ第18話に既述している。

第18話 ドイツ学事始め(その2、本邦初の独和辞典)

http://isomers.ismr.us/isomers2012/lexicon118.htm

引用文中に参照されている本書の本文p.102p.108およびp.141の訳注102に、市川斎宮(兼恭)と加藤弘之との折衝の模様が活き活きと述べられ、殊に市川の優れた能力、博識、見識を賞賛しているが、その内容を次々回に抜粋紹介する。

                 (つづく)