2014. 2. 4

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

27 話 ドイツ学事始め(その9 リヒトホーフェン日本滞在記 B 市川斎宮と加藤弘之)

 

前々回述べたが、リヒトホーフェンは電信機の取扱法を習いに使節の宿舎に訪ねてきた市川斎宮のことを「不屈の勤勉さと、驚くべき学習意欲をそなえた学者」と評している。

 

滞在記の本文1861.1.16の項を辿ってみよう。

・・・・・[市川]は学者で校長であるが、非常に巧みで、気が利いている。彼は電信機のすべての理論と実際を知っていて、細部にわたりいくつかの質問をしたので、私は、彼がどうして単に書物からそのような完全な知識を獲得できたのか驚いてしまった。日本人は、明らかにヨーロッパの言語から翻訳された複雑な電信機の図版付きの物理学書を持っている。それにしても、彼らは全くすべてのことを理解しているわけではないだろうと私は確信していたので、欧州の新参学者のように経験豊かである男を見て驚嘆した。だがもっと驚いたのは、それから彼と一緒に写真の現像用の暗室に行ったときだった。そこでも彼には新しいものはなかった。彼は現像方法の全般について質問したが、それはそれを前もって理解していない人としてではなく、もっと教えられることを願っている人の質問だった。彼の質問はいつもこうだった。「そうでしょう。焦性没食子酸(ピロがロール)を入れ、それから亜硫酸ナトロンを使うんでしょう」。化学薬品やその効果を見たことはなかったはずなのに彼はこれらの名称を全部正確に知っていた。彼の第三の分野は言語だった。彼はオランダ語をとても不明瞭ではあるが、上手に話し。英語は流暢ではなかった。私は彼に絵入り新聞一部を贈った。なんと、彼はドイツ文字(亀甲文字)のドイツ語をとても上手に読んでいるではないか。発音は彼には難しかったが、正しい発音というものを知っていて、努力を惜しまなかった。私は彼が帯に挟んでいた一冊の本を見せてもらった。それはドイツ文法書で、ドイツ人のためにドイツ語で書かれていて、終わりの方には詩文選が付いている。彼は単語の意味など一つも書かれていないこの本を使って全く知らない言語を学んでいる。(後略)・・・・・

 

 リヒトホーフェンは市川と同道した加藤弘之について何も述べていない。訳注p.142から加藤自身の回顧談を引用しよう。(「独逸学の由来」、明治33111日、発行、『独逸語学雑誌』)

・・・・・そこで独逸学を一番早くやったのは誰であるかと申すと即ち先頃82歳の高齢で長逝された市川(かね)(やす)(当時は斎宮とよべり)と拙者との二人である。この二人が独逸学を始める前からの由来を少し話さなければならぬが、確かには覚えぬけれど文久元年位のことと思ふ。今日から云うと丁度三十八、九年前と思ふが普魯士国から条約を結ぶ事に就いて使節を江戸に差越したことがある。其時普魯士国王から電信器機を贈られた、それで幕府の内閣から蕃書調所(当時の洋学校)に電信の術を伝習することの命令を下した。で市川君と私とが蕃書調所の教授であったから蕃書調所から選ばれて電信を伝習することの命を受けた。そこで普魯士の公使の旅館に二人で行った。其旅館は今何処になって居るか確かに覚えぬけれども芝の赤羽であった。其処に命を受けて往った所が公使に附いて来た人が出て電信の仕方を教えてくれた、(後略).・・・・・

この「公使に附いて来た人」がリヒトホーフェンである。

                 (つづく)