古川安氏の「京都学派」3部作とアイソマーズ「化学史の旅」訪問地

武山高之

1.2.2015

 

1.はじめに

化学史学会会誌の最新号に、化学史学会会長古川安先生の長文の下記論文が掲載された。

 

文献1 古川安「燃料化学から量子化学へ‐福井謙一と京都学派のもう一つの展開‐」

『化学史研究』第41巻(2014年):181233

 

 この論文は、古川会長の下記2通の論文と合わせて、「京都学派3部作」とも云えるものである。

 

文献2 古川安「喜多源逸と京都学派の形成」

 『化学史研究』第37巻(2010年):117

文献3 古川安「繊維化学から高分子化学へ‐桜田一郎と京都学派の展開‐」

 『化学史研究』第39巻(2012年):139

 

 文献1が発表された機会に、文献2および3も読み直してみた。工化会出身者には、ぜひ読んでもらいたい論文である。喜多・桜田・福井先生だけでなく、児玉信次郎先生ほか我々が教えを受けた教授方を通した工化会系の歴史が学べるまたとない論文である。

 ちなみに、著者の古川先生は、東京工大出身で数年間帝人に勤務されたあと米国に留学され、化学史を学ばれた化学史の専門家である。工化会出身でない古川先生がこのような論文をまとめられたことに感謝するとともに、外部から見た京都学派の特徴がどういうものかが分かる点でも興味深い。

 この論文の特徴は、オーラル・ヒストリーを含めた多くの文献を引用されているほかに、多くの関係者へのインタビューがなされている点である。化学史学会の重責にある人ならではのアプローチである。貴重な写真も多く集められているのも有難い。

 

 紹介したい事項はたくさんあるが、ここでは我々の「ドイツ化学史の旅」で訪問した研究所に関することに絞って述べる。

とくに、「ドイツ化学史の旅パート4」で訪れたライプチヒ大学とベルリン郊外のダーレムにあったカイザー・ヴィルヘルム研究所について述べる。

 

2.喜多源逸先生 (この項、詳しくはアイソマーズ通信2010年の拙稿を参照願いたい)

喜多先生が留学されのはちょうど第一次世界大戦終戦の頃であった。喜多先生ははじめドイツ留学を希望されていたようであるが、大戦の影響でドイツには行けず、アメリカ・MITのアーサー・ノイズの研究室に向かった。1918年第一次大戦終結の年であった。ノイズはドイツ・ライプチヒ大学ヴィルヘルム・オストワルト研究室で物理化学を学んだ人である。喜多先生はノイズのもとで物理化学を学んだ。いわばオストワルトの孫弟子にあたる。

 その後、喜多先生はパリのパスツール研究所に移り、発酵の研究をしている。

喜多先生の博士論文は留学中に行った「リパーゼの研究」だったそうである。

 喜多先生の留学中の物理化学および発酵工学についての体験は、その後の工業化学の講座編成に影響したのだろうか?

 

3.桜田一郎先生(文献2参照)

 桜田先生は19289月に神戸を発ち、マルセイユ経由でベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所のクルト・ヘッス教授の研究所に向かった。途中、パリに寄り野津龍三郎先生(京大理学部出身で高分子物性論で著名、京大理学部教授)の案内で、パリのパスツール研究所を訪れ、喜多先生が使った机を観ている。私は「ドイツ化学史の旅パート3」の折、ドイツに着く前に、パリのパスツール研に寄ったことがある。野津先生は当時、フライブルグ大学のシュタウジンガー教授のもとに留学しており、後にシュタウジンガーの粘度式として知られる高分子の希薄溶液粘度の経験則確立の共同研究者として、貢献している。

 

H.Staudinger and R.Nodzu Bericchte 63 721(1930)

 

 桜田先生がベルリンに着いた時、ヘスの研究室は満員で、半年ほどライプチヒ大学のヴォルフガング・オストワルト(ヴィルヘルム・オストワルトの長男で、著名なコロイド化学者)で学んだという。この経験は、のちにMark-Houwink-桜田の式と呼ばれる粘度式の考案に役立っているとも思われる。高分子の分子量と希薄溶液粘度との関係式は、のちに倉田-山川の式、倉田-Stockmayerの式として、京都学派で精密化されていった。

 桜田先生はビニロンの発明者として有名であるが、高分子化学の基礎研究でも顕著な業績を残している。留学が終わろうとする頃、喜多先生は桜田先生にX線結晶解析の手法を学ぶように指示されたという。X線結晶解析は、1912年のラウエの回折現象の発見に始まり、ドイツはイギリスとともにその中心地であった。ただ、ラウエの研究は寺田寅彦先生により日本に取り入れられて、すぐに追試が行われた。

さらに、高分子結晶のX線構造解析を世界で最初に行ったのは、寺田門下の西川生治先生だった。多分、工業化学の喜多先生のところでは、まだ研究されていなかったのではないだろうか。

留学中に桜田先生は友成博士(東北大出身の機械技術者でビニロンの開発で業績)と交流をしており、あとで述べる児玉先生がベルリンに着いた頃、児玉先生を含め、ベルリンのレストランから喜多先生あてに3人で書いたハガキが残っている。(文献2)

 

以上、

中條利一郎:高分子47増刊(1998年)

「日本の高分子化学史」の「高分子の基礎科学‐主として物理の立場から」

梶慶輔:高分子63巻(2014年)

「特集 高分子構造解析の原点を知る‐世界結晶年2014を紀念して」の「高分子結晶の特異性」

拙稿 アイソマーズ通信2014「フリッツ・ハーバー研究所100年史」

も併せて参考にした。

 

4.福井謙一先生(おもに文献1参 照)

 福井先生が大学を卒業されたのは、第二次世界大戦開戦の頃であり、福井先生自身は欧米留学の経験はなかった。

しかし、この文献1には、福井先生の指導教官であった児玉信次郎先生カイザ―・ヴィルヘルム物理化学電気化学研究所(現フリッツ・ハーバー研究所)への留学について、かなりのスペースを割いる。児玉先生が留学した当時の所長はアンモニア合成で有名なフリッツ・ハーバー教授であり、ヘルベルト・フロイントリッヒ教授(コロイド化学、吸着等温式で有名)とミハエル・ポラーニー教授らが研究室を主宰していた。児玉先生の留学先はポラーニー教授のところであった。

ポラーニー教授から「君は量子力学を学んだか」と聞かれてことは有名である。このことは喜多先生にも伝えられたであろう。喜多先生が福井先生に、「数学が好きなら化学をやれ」といった話に繋がる。

1925年にハイゼンベルクが行列力学を、1926年にシュレーディンガーが波動力学を、1927年にハイトラーとロンドンが、水素分子についての近似理論を提案した、量子化学のスタートを切った。児玉先生がドイツに留学したのはそのわずか3年後のことであった。

 児玉先生は193010月に日本を発ち、シベリア鉄道経由で、ベルリンにつき、桜田先生の出迎えを受けている。児玉先生の留学先であったカイザー・ヴィルヘルム物理化学電気化学研究所は、桜田先生が留学していたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所のすぐ近くにあった。

「ドイツ化学史の旅パート4」で、我々はダーレムにあるこの二つの研究所を訪ね、フリードリヒ教授に案内して頂いた。