平成271027

西 村 三千男

 

連載「余談・ドイツ化学史の旅・番外編」

 

14回 アレキサンダー・ウイリアム・ウイリアムソン伝 (そのU)

 

抄録ではなく、記述されている内容から注目情報を列記してみよう。

 

第一章 知の旅人

●ウイリアムソンの両親はスコットランド系、父は若い頃は東インド会社勤務で裕福であった。

●父は、同郷のベンサム主義者等の大学(UCL)設立運動を支援していた。

●ウイリアムソンは幼時虚弱、右眼は殆ど失明、左腕は硬直する二重の障害を生涯負った。

 

第二章 バークベック実験室

●フランス、ドイツ留学を経て1849年帰国、UCLの分析化学の教授に就任

UCL創立メンバーの一人の名前を冠した実験室(Birkbeck Labo.)を教育の拠点とした

●当時の英国はヴィクトリア女王治世下の繁栄を謳歌。産業革命の成功、石炭、鉄、鉄道の時代、第1回万国博覧会(1851)

1856年エマ・キャサリンと結婚。彼女は日本人留学生を長年にわたって慈しむ。

 

第三章 日本から来た若者たち() −長州の5人−

1863年、英国化学協会会長に就任。

●ジャーディン・マセソン商会の仲介で、1853年長州ファイブをUCLの聴講生として受け入れ、住まいも自宅に受け入れた。手狭なため2名(井上、山尾)は分宿した。

  ●伊藤、井上の2名は、薩英戦争を終結させるべく、折り返し日本へ帰国した。

 

第四章 日本から来た若者たち() −薩摩の19人−

●薩英戦争終結の和議に留学生を派遣する条項が含まれていた。1865年に実行された。

●ウイリアムソン教授の発案で「薩摩スチューデント19」は2名ずつUCLの教官宅に分宿。

●「薩摩19」と「長州ファイブ」の残留3名とは直ぐに交流、情報交換が始まった。

●山尾庸三がスコットランドへ転居する旅費の捻出に困って、薩摩スチューデントの個人カンパを受ける逸話も記載されている

 

第五章 ブルックウッド墓地

●本シリーズ第11回〜第13回の話題と重複する部分も多い

 

第六章 日本近代化への架け橋

  ●明治日本の工学人材を育成するため、工部大学校を設けた。それを差配した山尾庸三はウイリアムソンの弟子であったが、英国から工部寮へ派遣する教師陣の多くはグラスゴー大学のケルヴィン卿の影響下で選ばれた

  ●但し、化学教師のダイバースと後の東京開成学校のアトキンソンはウイリアムソン門下

 

第七章 「異質の調和」をめざして

●最晩年を快適に過ごす居所としてロンドン郊外Halsemereに広大な土地を取得し、半農半科学の生活を目論むが次第にウイリアムソンの体力は衰えてきた

●薩摩スチューデントの森有礼が1880年、日本国の英国駐在公使としてロンドン着任

●桜井錠二は1876~1881年英国UCL留学。成績極めて優秀でウイリアムソン教授の愛弟子となった。桜井が日本で書いた論文をウイリアムソン教授が英国で代読発表したこともある。桜井自身の回顧録が掲載されている。

19045月逝去

 

(つづく)