心臓手術の進歩

一医療材開発者の視点

 

武山高之

 

私は9月に入ったら、心臓の大動脈弁置換手術を受けることにしている。医療材開発をライフワークとしてきた私にとって、80歳にして受ける初めての本格的手術である。

いい機会なので、一医療材開発者の立場から心臓手術に関する医療材開発の思い出を纏めてみたい。

 

私が東レおよび東レメディカルで医療材開発を担当したのは、1973年(昭和48年)から1998年(平成10年)25年間である。40年間の東レ生活の半分以上に当る。

 

心臓手術のキーとなる技術に「人工心肺装置」と「人工弁」がある。どちらも最初はアメリカでパイオニアリング的な開発がなされた。

日本で最初に「人工心肺装置」が使われたのは1956年であった。阪大の曲直部博士によった。曲直部博士は後に阪大教授、吹田の国立循環器センター長として活躍し、心臓外科の発展に貢献した。

最初の「人工心肺装置」が使われてから、すでに60年が経っている。現在、日本での開心術症例は20年ほど前から急速に増加し、2006年には6万件を超えている。現在は10万件に近いのではないだろうか。

 

私が医療材に関わるようになった頃には、「人工心肺装置」のことも、曲直部教授のことも知っていた。東レは「人工心肺装置」に直接かかわることはなかったが、1980年頃にヘパリン徐放性の抗血栓性材料“アンスロン”の応用を試みたことがある。この頃、人工心肺の概略を勉強した。

私が東レを退職する頃には、人工心肺を用いた開心術は心臓の標準的な手術法になっていた。

 

「人工弁」の最初の臨床応用も半世紀ほど前である。私が東レを退職する頃には、すでに標準的治療法になっていた。人工弁はインプラント材料である。

東レでは野一色泰晴先生との人工血管が「インプラント材料は危険性である」との考えから、研究開発禁止になってから、その研究開発はタブーになっていた。

ただ、生体材料のなかではブタからとった材料が、免疫拒否反応が少ないということは常識になっていた。

私が心臓について初めて学んだのは、井上寛治医師と僧房弁狭窄症治療“イノウエバルーンカテーテル”の研究を始めて時である。

井上医師との最初の出会いは、1983年の夏休みに帰省していた時の高知市民病院であった。このカテーテルは日本発の心臓治療用の製品で、井上医師は日本心臓学会の栄誉賞に輝いた。栄誉賞は彼のためにわざわざ作った賞である。

 

その頃の私は、心臓治療の複雑さに関する怖さとそれが我々のカテーテルで出来るという親しみの両面を持っていた。今回の私自身の問題でも井上寛治先生に相談したが、京都にくれば良い医師を紹介するとのことであった。京都は遠すぎる。やはり千葉の地元でよく話し合ってきた、馴染みのある医師に頼んだ方がいいと判断した。

もう一つ、心臓治療に関する思い出は、アメリカ・テキサス州ヒューストン、ベイラー・、カレッジでの心臓外科の権威・ドゥベーキー教授との出会いである。1993年のことである。その時は、横浜市大の野一色泰晴医師と同行していた。野一色医師がドゥベーキー教授の権威を前に非常に緊張していたことを覚えている。

 

この時代から4分の1世紀ほどたって、心臓外科の技術は驚くほど進化した。そして、私自身もその恩恵に預かることになったわけである。