明治期の日本とスコットランドとの交流

‐外務省外交史料館『マッサン展』から抜粋‐

武山高之(2015.3.24記)

 

外務省外交史料館での『マッサン展』を見学してきた。6月の「化学史の旅」に参考になることが多かったので、当日入手した冊子から抜粋して報告する。

調べるうちに、幕末に密留学した長州ファイブ、それを手助けした横浜のジャーディン・マセソン商会、さらに彼らを受け入れた化学者ウイリアムソン教授が、明治日本の近代化に非常に大きな影響を及ぼしたことが実感されてきた。

 

1. 明治初期(1870年代)の「お雇い外国人」の半数以上は英国人であり、その中でスコットランド出身者が重要な位置を占めていた。

 1870年代の約10年間には、明治政府は西欧の先端技術や文化を学ぶために、多くの「お雇い外国人」を招聘した。冊子にはその数がグラフ化されている。統計数字は諸説あるようだが、冊子に取り上げられているのは、1870年から77年には在籍者が500人を超えており、最盛期の1875年には800人を超えている。明治政府の近代化への並々ならぬ意欲が感じられる。詳細な内容は分からないが、随分と多い数字である。

この「お雇い外人」の約50%が英国人である。正確には分からないが、英国人の過半数がスコットランド出身者だったという見方がある。

高橋の岩波新書によると、明治期には約2000人のイギリス人が来日していたという。その中には、工学・技術教育だけでなく、上下水道のマッキントッシュ、灯台建設のブラントン、軽井沢開発のショーなどスコットランド人の活躍が目立ったという。

ドイツ人の割合が増えてくるのは1880年以降である。

 「お雇い外国人」の中には、大臣並みの報酬を得ていた者もいたので、財政的に大きな負担となり、次第に日本人に置き換わっていった。

 

2.「お雇い外人」の人選にあたっては長州ファイブをロンドンで世話したヒュー・マセソンの尽力があった。

 岩倉使節団の一員であった伊藤博文には、日本の工業分野の学校を開設する任務が与えられていた。ロンドンに到着した伊藤はかつて長州ファイブの一人として世話になったヒュー・マセソンを訪ね、学校建設のために日本に派遣する指導者の人選を依頼した。

 ヒュー・マセソンは長州ファイブの密留学の手助けをした横浜のジャーディン・マセソン商会の創立者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたる。また、ヒュー・マセソンはジャーディン・マセソン商会のロンドン社長でもあった。

 ジャーディン・マセソン商会の創立者のジェームス・マセソンとウリリアム・ジャーディンの二人ともまたスコットランド出身で、エディンバラ大学を卒業している。

 ヒュー・マセソンは当時工学分野で最高水準にあったグラスゴー大学に相談した結果、工部大学校の初代都検(実質的校長)としてヘンリー・ダイアーが選ばれた。高橋によると、工部大学校の最初の教授6人のうち、3人が生まれも大学もスコットランドであったという。

 

3.明治政府は関係したスコットランド出身者の功績を称えて叙勲した。

 明治政府は日本の近代化に対するスコットランド出身者の貢献に感謝をしていたと思われる。その現れの例として、次の3人への叙勲がある。

 

○ ヘンリー・ダイアー

 1873年(明治6年)に若干24歳で来日、1882年(明治15年)までの9年間、工部大学校・初代都検(実質校長)を勤めた。帰国後に勲三等が贈られた。

ダイヤーはスコットランドの実学思想の重要性を強調し、高峰譲吉(アドレナリンの発見者、グラスゴー大学留学)、辰野金吾(東京駅や日本銀行の設計者、ロンドン大学留学)、志田林太郎(通信事業の育ての親、グラスゴー大学留学、ケルビン郷に学ぶ)、三好晋六郎(洋式造船の先達、グラスゴー大学留学、グラスゴーの造船所で実習)、田邊朔郎(琵琶湖疏水、日本初の水力発電所に貢献)らを育てた。田邊先生のお宅は左京区真如前町の私の下宿の近くにあった。

 

○ ケルビン郷

熱力学第一法則・絶対温度理論に貢献した物理学者である。グラスゴー大学の教授であったが、来日したことはない。しかし、多くの人材を日本に派遣したことおよび日本からの多くの留学生を育てた貢献に対して、1901年(明治34年)に勲一等旭日章が贈られた。

1904年にグラスゴー大学総長に就任したことからみると、行政面でも業績を残していたのだろう。

 

○ トマス・グラバー                                                                     

幕末の長崎屈指の貿易商で、前述のジャーディン・マセソン商会から独立て、商社を起こしている。彼もまたスコットランド・アバディーン出身である。

明治維新の舞台裏で活躍した。長州ファイブおよび薩摩からの15人の密留学生を助けた。1908年(明治41年)に伊藤博文と井上馨の推薦により、勲二等旭日重光賞が贈られる。

 

4.小学唱歌とスコットランド民謡

 『蛍の光』のメロディーがスコットランド民謡から借りられていることは多くの人が知っている。これだけではない。1882年(明治17年)までに出された『小学唱歌集』に収載されている90曲のうち、9曲がスコットランド民謡だという。日本とスコットランドの精神風土の近さを象徴しているのではないかと書かれている。

 

参考資料

外務省外交史料館特別展示『マッサン展』配布冊子(2014924201558

高橋哲雄『スコットランド歴史を歩く』(岩波新書、2004年)

ほかに、人物の経歴についてはWikipediaを参考にした。