ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで薩長の留学生は何を学んだか

 

武山高之(2015.4.6記)

 

6月に訪問予定のユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学者アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン(Alexander William Williamson)教授について調べたので報告する。

「ドイツ化学史の旅・番外編」としてウィリアムソン教授を選んだのは、彼がギーセンのリービッヒ化学教室に学んで、幕末の長州からの5人の留学生および薩摩からの14人の留学生の世話を引き受けたことによる。

 ただ、ウィリアムソン教授の化学における業績は、今まで「ドイツ化学史の旅」で取り上げてきた多くの化学者に比べると、さして顕著なものではない。また、薩長の留学生で後に化学者になった者はいなかった。

しかし、薩長の留学生を通じて、政治史・外交史・産業史・思想史における日本の近代化に及ぼしたウィリアムソン教授の影響は非常に大きいものがある。

なぜ、化学者ウィリアムソンが、化学にさして興味がない留学生を引き受けたのだろうか?

 以下、UCLとウィリアムソン教授の父との関係、ウィリアムソン教授の父が勤めていたイギリス東インド会社との関係、ウィリアムソン家と親交があった哲学者で社会思想家のジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)との関係から考察した。留学生の帰国後の活躍分野を考えると化学的側面から考えるよりも、こちらの側面から考える方が適当だと思う。

 

1. ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の建学精神6)

UCLの設立は、1826年である。この大学の設立と発展には功利主義哲学者ベンサム(Jeremy Bentham17481832)の影響があったという。当時、オックスフォード大学とケンブリッジ大学がイギリス国教徒・貴族出身という差別的入学条件を持っていたのに対して、ベンサムは「すべての人に開かれた大学」の必要性を主張していた。UCLは宗教・政治的思想・人種による差別的入学条件を撤廃していた。

これが日本からの留学生が受け入れられた第一の条件だった。

 

2. ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにおけるA・W・ウィリアムソン教授の立場1)6)

UCLが日本からの留学生を受け入れた理由は理解できたが、では何故、化学教授であるウィリアムソンが引き受けたのだろうか?

このことについての資料は見付からない。ただ、二つの可能性が考えられる。

第一は、斡旋者のジャーディン・マセソン商会あるいはトーマス・グラバーがUCLの本部に依頼して、本部から教授が指名された場合である。

第二は、斡旋者から直接、ウィリアムソン教授に頼んだ場合である。

まず、前者の立場で考えてみた。山岡望によると、ウィリアムソン教授の父はUCL設立に大変貢献した人だという。教授自身もUCLからの信頼が厚く、1849年から後任のラムゼー教授にあとを託するまで、38年間の長きにわたって,UCLの化学教授を勤めた。ウィリアムソン教授のUCLにおける存在は特別だったようである。

ちなみに、ラムゼー教授はグラスゴー大学でアンダーソン教授のもとで学び、のちに「希ガスの発見」で1904年のノーベル化学賞を受賞している。アンダーソン教授もまたリービッヒに学んだ人である。

 

3.ジャーディン・マセソン商会およびトーマス・グラバーとウィリアムソン教授の接点にイギリス東インド会社がある1)6)

ジャーディン・マセソン商会の前身はイギリス東インド会社である。また、トーマス・グラバーはジャーディン・マセソン商会から独立している。

 山岡望によると、化学者ウィリアムソン教授の父アレキサンダー・ウィリアムソンもまた東インド会社の社員だったという。

そんなことから、ジャーディン・マセソン商会とウィリアムソン教授にはイギリス東インド会社という接点があったとも推察される。

イギリス東インド会社とアジア諸国の関係は複雑である。また、当時イギリス東インド会社はその役割を終え、すでに解散していたが、日本にとってプラスに働いたと考えられる。

 

4.ウィリアムソン家は哲学者で社会思想家としても有名なジョン・ミルの家族と親密な交流があった1)2)

ウィリアムソン教授の父アレキサンダー・ウィリアムソンのイギリス東インド会社での上司に、哲学者で社会思想家として有名なジョン・スチュアート・ミルの父親の歴史学者ジェームス・ミルがいた。

そのため、ウィリアムソン家とミル家は親しい間柄だったという。ジェームス・ミルは『インド史』を書いたほど、東洋に造詣を持った人であった。ジョン・スチュアート・ミルはウィリアムソン教授より18歳年上で、ウィリアムソン教授にも大きい影響を与えていたことが考えられる。そのため、ウィリアムソン教授自身も単なる化学者という以上に広い教養を持った人であったと思われる。さらに、ジョン・スチュアート・ミルはUCLの設立に大きな影響があったと言われているベンサムの思想を引き継いだ学者でもあった。

 

5.留学生たちがイギリスで学んだことは何であったか?

5.1.全員が学んだ分析化学実験3)

 留学生の全員がまず英語の勉強をしたことは当然であるが、続いて化学実験をしている。なぜ化学実験を義務付けたのだろうか?

菊池氏は、ウィリアムソン教授は化学実験を一般教養科目のように考えていたのではないかと考察している。

大学に化学実験室を最初に導入したのは、ギーセンのリービッヒ化学教室であった。1820年代のことであるが、その時は化学・薬学の専門家を育てることを目的とし、一般の学生に開放することはなかった。そのことから考えると、ウィリアムソンの試みは画期的なことであったように思う。

 一般的教養科目であったとはいえ、彼らはリービッヒ流の近代化学実験を体験した最初の日本人であった。はじめて日本に近代的化学実験装置が伝えられたのは、長州ファイブがロンドンで学んでから4年後の1867年(慶応3年)に、オランダ人化学者ハラタマの大阪舎密舎における実験まで待たなければならない。

 

5.2.長州ファイブ学んだこと4)

1863年(文久3年)に、井上馨(出国当時27歳)・遠藤謹助(26歳)、山尾庸三(25歳)、伊藤博文(22歳)、井上勝(20歳)の5人の若者が、ジャーディン・マセソン商会の斡旋でイギリスに向けて密出国した。このうち、井上勝だけが僅かに英語が理解できたという。

それまでに欧米に渡航したのは幕府から派遣された、1860年(万延元年)の日米修好条約批准書交換のための遣米使節団と1862年(文久2年)の遣欧使節団(英、仏)だけだった。そのため、5人の若者が受けた最大の影響は先進国に対するカルチャー・ショックだった。以下に、各々の若者のその後について記す。

 

政治家になった伊藤博文と井上馨の場合

 イギリスに滞在して1年あまり経った頃、彼らはイギリスにおいて下関戦争の計画を知った。イギリスの実力を目の当たりにしていた彼らは、このような国と戦っても、とても勝ち目がないと考えた。このことを伝えるために伊藤博文と井上馨は、留学を1年で切り上げ、急遽帰国した。

1年間という短い期間であったが、二人は国際感覚を身に着け、圧倒的な国力の差に接し、開国論に変わった。また、英語力もある程度身に着け、下関戦争の和平交渉では、通訳を務め、長州藩の外国応接係に任ぜられた。後述するように、明治政府では内閣総理大臣と外務大臣として活躍した。

 

技術を学んだ山尾庸三、井上勝、遠藤謹助

 伊藤博文と井上馨以外の3人はイギリスに残り、留学を続けた。

井上勝はUCLで鉄道と鉱山の技術を学んで、5年間の留学を終え、帰国し、明治政府の鉱山頭兼鉄道頭に就任した。

ちなみに、彼らがロンドンに到着した時は、すでにロンドンとスコットランドの間にはフライングスコッツマンという急行列車が走っており、ロンドンでは地下鉄が開通していた。

井上勝の銅像は、以前東京駅丸の内側にあったが、今はどこかに片付けられている。

 

山尾庸三はロンドン滞在の後、グラスゴーに行き、ネピア造船所で造船技術を習得した。同時にアンダーソン・カレッジの夜間授業に通い、化学の原理などを習得した。5年の留学を終えて帰国した後は、明治新政府の一員として、工部省・工部大学校の設立に貢献した。

山尾庸三が設立に貢献した工部大学校の記念板は霞が関の文部科学省前にある。

 遠藤謹助は、途中病気になり3年で帰国したが、のちに大阪造幣局の設立に貢献した。

 

5.3.薩摩藩第一次英国留学生6)

1865年(慶応元年)にトーマス・グラバーの援助を得て密出国した。一行は引率者3名、通訳1名、留学生14名(出国当時15歳から23歳)、13歳の年少者1名の計19名であった。

引率者は新納久脩(出国当時33歳)、寺島宗則(33歳)、五代友厚(29歳)であった。そのうち、寺島宗則は1862年(文久2年)に幕府の文久遣欧使節団に加わっていた。

14名の留学生はウィリアムソン教授の世話で3か月の語学研修の後、UCLで1年間、法文学部の聴講生として学んだ。学んだ内容の詳細は分からないが、次の年に幕府留学生として渡英した中村正直がのちにジョン・スチュアート・ミルやサミュエル・スマイルを訳している所から、彼らの思想が話題になっていたのだろうか。当然、アダム・スミスも学んであろう。(アダム・スミスの説は、幕末にオランダを通じて日本に入ったという説がある)

法文学部で学んだ後、資金が不足して、帰国した者とアメリカに移った者など分かれていった。

帰国後、彼らはおもに外交関係や教育関係で活躍した。

 

「明六社」を設立。啓蒙活動・文部大臣(森有礼)。

外交分野では、外務卿(寺島宗規)、寺島のもとで外務大輔(鮫島尚信)、岩倉使節団員・米国特命全権公使(吉田清成)、山県有朋・西郷従道らの通訳、外交官(中村博愛)など。

教育・文化関係として、東京開成学校校長(畠山養成)、海軍兵学校校長(松村淳蔵)、帝国博物館初代館長(町田久成)。

 

6.森有礼と「明六社」5)6)

 森有礼はイギリス留学後、アメリカに滞在し1873年(明治6年)に帰国した。帰国後、福沢諭吉、西周らとともに「明六社」を結成した。主宰者は年少の森有礼であった。

「明六社」とそれが発行した「明六雑誌」は、近代日本思想史における明治初期の啓蒙思想の1ページを飾った。「明六雑誌」は1年ほど続いたが、富国強兵のためには、まず人材の育成を唱え、欧化思想を推進した。

主なるメンバーを次にあげる。幕府の蕃書調所出身者が多く、幕末に幕府の遣米使節団・遣欧使節団に加わった者、幕府のオランダ・イギリス留学に参加した者、洋書の翻訳を進めた者が含まれていた。

 

森有1847年(弘化4年)生まれ。文部大臣。

福沢諭吉1835年(天保5年)生まれ。長崎遊学、適塾、蕃書調所に所属。1860年(万延元年。咸臨丸で研米使節団として渡米。1862年(文久2年)に遣欧使節団にも参加。

西周1827年(文政12年)生まれ。蕃書調所に所属。1863年(文久3年)に幕府からオランダ留学生として派遣され、法学、哲学、経済学、国際法を学ぶ。『万国公法』の翻訳。

中村正直1832年(天保3年)生まれ。1 866年(慶応元年)に幕府から留学生としてイギリスに派遣され、2年後帰国。サミュエル・スマイルの『Self Help』を『自助論』として、ジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を『自由之理』として、翻訳出版。

津田真道1829年(文政12年)生まれ。津山藩、蕃書調所に所属。1863年(文久3年)に西周らと幕府からオランダ留学を命じられ、ライデン大学で4年間法学、政治経済学、統計学を学ぶ。日本初の西洋法学の紹介書を翻訳。

箕作秋坪1825年(文政8年)生まれ。津山藩、適塾、蕃書調所に所属。1962年(文久元年)に文久遣欧使節団に参加。数学者・菊池大麓の父である。幕末外交交渉に活躍。

箕作麟祥(あきよし)1846年(弘化3年)生まれ。蕃書調所、開成所に所属。1867年(慶応3年)パリ万博の随員。『ナポレオン法典』の全訳。

 

森有礼の執務机は、霞が関の文部科学省内にある。

 蕃書調所出身者が多いが、蕃書調所の記念板は東京九段下にある。

 

7.第一次伊藤博文内閣6)

1885年(明治18年)に伊藤博文は442か月で初代内閣総理大臣になった。これは今日までの歴代総理大臣で最年少である。

この内閣には10人の大臣がいた。うち、外務大臣の井上馨、文部大臣の森有礼を加えて3人がUCLでウィリアムソン教授の教えを受けていることは特筆すべきことである。

この他、逓信大臣の榎本武揚が1863年(文久3年)の幕府オランダ留学生に参加している。また、陸軍の大山巌も外遊している。国際化の立場を重んじていたことがわかる。

 

参考文献

1.            山岡望『化学史談2 ギーセンの化学教室』(内田老鶴圃新社)

2.            安井俊一『J.S.ミルの社会主義論』(お茶の水書房、2014年)

3.菊池好行「幕末のロンドンにおける薩長留学生と化学の邂逅」(第11回化学史研修講演会、2014823日)

4.株式会社トクヤマ社内誌 大倉五半二『産業・人物史探訪〜トクヤマに関わりの深い産業と人物の軌跡〜』

5.津山洋楽資料館常設展示図録『資料が語る津山の洋学』

6.Wikipediaほか