講演題目:ドイツ化学史の旅(7リービッヒ学派と英国

 

講演者名:伊藤一男(京大アイソマーズ)

 

 ドイツの有機化学者リービッヒ(1803-73)は、1824年にギーセン大学に奉職して以来、 実験を通じて化学を学ばせるという画期的な教育改革を行ったことが評判を呼び、 化学や薬学を志す世界の俊才たちがリービッヒのもとに押し寄せ、 なかでも英国からの留学生が最も多かった。またリービッヒ自身も1837年からたびたび英国を訪れ、さらには彼の直弟子のAW・ホフマンを1845年から20年間、ロンドンの王立化学大学に派遣するなど、英国と深い関係を築いた。20056月から始めたわれわれのドイツ化学史の旅は、20156月、十年の節目を迎えたので、これを記念して英国まで足を延ばし、リービッヒ学派の英国における足跡を訪ねた。また、幕末から明治にかけてわが国の留学生の面倒をみてくれたリービッヒの弟子・ウィリアムソン(ロンドン大学の化学教授)ゆかりの地も巡った。

 

 物議を醸したリービッヒの農芸化学論1)2)3)

 1840年にリービッヒが刊行した『農業と生理学に応用した有機化学』の英国における反響は大きかった。ただし、賞讃をはるかに上回る批判、 非難にさらされた。

 リービッヒは、植物の栄養とそれに関連した農業技術や醗酵、腐敗、分解といった生命現象が当はまだ系統的な整理がなされていなかったので、長年自らが手掛けてきた有機化学の知識を動員して、これらがすべて化学的過程で整理でき、体系化が可能であることを主張した。さらに勢い余って、無機栄養説という大胆な説を振りかざしたので、これが英国農業学者の癇に触れた。その上不幸なことに、リービッヒが開発した「特許肥料」が実際の畑ではまるで効果がなく、無機栄養説攻撃の絶好の標的にされた。

 その後、1862年の改訂版で、リービッヒは敗色濃厚な「醗酵、腐敗、分解の化学的過程」を全面削除するなど、かなりの自説訂正を行いながらも、核心である無機栄養説および植物栄養分の完全補充説(物質循環論)については一歩も譲らず、ますます強い調子でそれを擁護した。リービッヒの名声は一度は地に落ちたかと思われたが、やがて物質循環論に立脚した屎尿の再利用に関する助言で再び担ぎ出され、1865年頃からロンドン・シティーとの深い繋がりへと発展していった。

 当時のロンドンでは、水洗トイレの普及が進んでいたが未処理のまま排水路からテムズ河に流込み、河はやがて巨大な下水路と化していた。そこでリービッヒが提案したのは、屎尿の肥料としての価値を見直し、これをリサイクル(畑への還元)することによって河川の汚染を防ぐとともに、廃物利用による経済効果を上げようというものであった。リービッヒの提案は結局、大幅に希釈された屎尿を再利用するには採算がとれないことで中断を余儀なくされたが、彼の資源リサイクル思想は今日の環境資源問題に繋がっている。

 

ホフマンが招聘された王立化学大学(Royal College of Chemistry) 

 1845年に新設された王立化学大学にリービッヒの直弟子ホフマンがドイツ・ギーセン大学から招聘され、ここで20年間、英国の若者にリービッヒ流の化学教育を施した。ホフマンの専門はコールタール化学であり、その応用としてタール系合成染料の開発を行い。優秀な人材を育て、多大な業績を挙げた。ロンドンのオックスフォード通りに面したかつての王立化学大学のビルの入り口には、銘板が掲げられている。

 

わが国の留学生に無償の愛を注いでくれたロンドン大学ウィリアムソン教授

 幕末から明治にかけてわが国の留学生(長州藩士、薩摩藩士、桜井錠二など)を受け入れ、献身的な世話と教育を施してくれたのは、ロンドン大学(University College London)のウィリアムソン教授であった。ウィリアムソンは英国人であるが、若い頃ドイツで教育を受け、ギーセン大学のリービッヒ研究室で学位を得ている。

 ロンドン大学には長州藩の5人(いわゆる長州ファイブ)および薩摩藩の14人(いわゆる薩摩スチューデント)の密航留学生の記念碑が建てられている。

 ロンドン郊外にあるブルックウッド墓地にはウィリアムソン夫妻の墓石と明治維新前後に志半ばで病死したわが国留学生4人の墓石もある。また2013年には、日英学術交流150周年記念事業式典の一環としてウィリアムソン教授夫妻顕彰碑の除幕式も行われた。

 今回は往時の若き志士たちの心意気を偲ぶ旅でもあった。

 

参考文献

1)小川眞里子、『化学史研究』、35189(2008)

2)J.V.リービッヒ『化学の農業および生理学への応用』吉田武彦訳(北海道大学出版会、2007年)

3)小川眞里子、『化学史研究』、36181(2009)