伊豆下田で山本經二さんの弟さん・山本有造名誉教授の講演を聞く

武山高之(2016.6.8記)

 

5月27日(金)、伊豆下田の市民文化会館で山本經二さんの弟さん・山本有造先生の次の講演を聞きました。主催はNPO生涯大学葵学園です。

 

演題「カロライン・フート号が来た!‐ペリーとハリスのはざまで−」

 

聴衆は百数十人。大半は中高齢の一般市民でした。下田市民の皆さんは非常に熱心に聴講していました。

 

この演題は下田市民にとっては特別なもの

この演題は、開国の港町・下田の皆さまにとっては、特別に関心があるものだと感じました。下田では、5月中旬にいつも黒船祭りを催しています。ペリー提督とハリス総領事が顕彰の対象になっており、横須賀から米海軍と海上自衛隊の派遣艦が来て、軍楽隊の行進も見られるそうです。ペリーとハリスは下田市民にとって、非常に身近な存在です。ただ、「カロライン・フート号」を知っている人は多くはないようでした。

 

化学史の旅を重ねてきた私にとっても特別なもの

昨年6月に英国旅行で長州ファイブ薩摩スチューデントの跡を辿ってきた私にとっても、日本の開国史は特別な関心事でした。

ペリーが来て、日米和親条約が結ばれたのは1854年です。翌年に調印され、下田と函館が開港されました。日米和親条約が結ばれると直ぐに英・露・蘭との和親条約も結ばれました。

1856年にはハリスが下田にやってきて、58年には日米修好通商条約が結ばれました。続いて直ぐに蘭・露・英・仏との修好通商条約も結ばれました。長州ファイブの密留学を仲介した英国のジャーディン・マセソン商会横浜支店が設立されたのは、日英通商条約が結ばれた翌年の1859年です。長州ファイブが英国に密出国したのは1863年で、ペリーが浦賀に来てから10年後のことです。ペリーが日本に圧力を掛けに来るのが遅れたら、長州ファイブの英国への密出国も遅れたと考えられます。

 山本先生の講演を聞きながら、講演の趣旨とも、下田の皆さんの関心事とも違うことを考えていました。日本の開国を最初に推し進めたのは米国ですが、結果的には幕末の貿易高では英国がトップでした。米国が遅れたのは南北戦争の影響だったようです。

 

山本先生の話の面白いところは「カロライン・フート号」

山本先生は、下田開国博物館に所蔵されている「豆州下田港入津之亜米利加婦人之図」を手掛かりに講演を始めて、約2時間にわたり、下田の開国史の話をされました。一枚の絵から説き起こされ、下田の開国史を分かり易く話された話術はさすがでした。

フート号は、日米和親条約が結ばれた翌年の1855年に下田港に現れたアメリカの商船です。その乗客に妙齢の女性3人と子供二人が混じっていて、下田の人たちを驚かせたという話から講演は始まりました。初めて見る外国人女性は下田の人たちにとって大きなカルチュアショックだったのでしょう。

そもそも、和親条約は薪水・食糧・燃料という航海で欠乏した物品の供給と漂流民の救助に限られて結ばれたため、商船に受け入れは論外だったようです。しかし、そこに露のプチャーチン艦隊がやってきて、さらに安政の大津波で旗艦ディアナ号が大破するという偶然が重なりました。

プチャーチン艦隊の乗組員500人をカムチャッカに送り届けるのに、フート号が使われたり、代船を西伊豆の戸田で建造したり、ややこしい話に発展しました。フート号がカムチャッカに行っている間、乗客の婦人や子供たちは下田に留まり、街中を歩くことになりました。

戸田での代船の建造は日本に洋式帆船の建造技術を残しました。これに参加した船大工たちは後に造船業の発展に貢献したそうです。詳しいことはここで話すスペースはありませんが、山本先生は面白く話されました。

 

「カロライン・フート号」の大きさ

ここで、一つだけ触れておきたいのは、フート号は145トンの小さな船だったということです。現在の沿岸カツオ一本釣り漁船程度の大きさです。ちなみにジョン万次郎が救助された捕鯨母船は500トン程度、咸臨丸は620トン、ペリー艦隊の旗艦は約2500トンです。

咸臨丸では、勝海舟ら一行は船酔いでほとんど役に立たなかったと伝えられています。船酔いしなかったのは、万次郎だけだったそうです。それと比べると、フート号の婦人と子供はよく耐えてきたものだと感心します。

 

事の始まり

 ところで、なぜ私は伊豆下田で山本有造先生の講演を聞くことになったか。少し説明が必要です。

事の始まりは、山本經二さんからアイソマーズの何人かに、有造先生の書いた次の小冊子と論考の別刷りが送られてきたことです。

 

小冊子『「お雇い」鉱山技師エラスムス・ガワーとその兄弟』

論考「カロライン・フート号婦人図をめぐる若干の考察‐ペリーとハリスのはざまで−」

論考「下田「欠乏品交易」とその貨幣価値‐ペリー−とハリスのはざまで−」

 

最初の小冊子は、化学史・技術史に関わっている私たちの直接の関心事です。

次の二つは直接的には関係のない論考です。とくに、最後の論考には「欠乏品交易」という聞きなれない言葉が入っています。しかし、努力して読んでみると面白いものでした。早速、下田に住むSさんとKさんという二人の友人にコピーを送りました。すぐに「これは面白い」という読後感が帰って来ました。その読後感を經二さんにまわすと、「講演をしてもらったら」ということになり、經二さんを通じて、お願いした次第です。 

Sさんは十数年前にイギリス旅行で知り合った友人で、下田ではドンだと聞いています。下田の知識人はみな知り合いです。

Kさんは会社での同僚で、定年退職後下田に移り住んだ人で、経済史にも強い物知りです。今では、SさんとKさんは仲のいい飲み仲間です。いろんな偶然が重なり、有造先生と繋がりました。

 

居酒屋での懇親会

 講演会後、山本先生ご夫妻を囲んで、下田の住人9名と武山夫婦も加わり、居酒屋で懇親会を持ちました。私の友人のSさんご夫妻、Kさん、Tさん、それに初めてお会いする開国博物館の方、葵学園の理事長などの下田の歴史好き文化人が集まりました。

名物の金目鯛を突きながら、懇親を深めました。

 

下田の休日

 講演を拝聴した後、開国博物館に行き、「豆州下田港入津之亜米利加婦人之図」の説明も聞きました。講演の直後だけに、全てが記憶に残りました。通常展示しているのはコピーで、桐箱に入った実物も恭しく見せて貰いました。

翌日は、お祖父上とお父上が造船業で、下田の町に寄与されたSさんが町に寄贈した「旧澤村邸」を見学しました。十数年前にうかがった時に、「伊豆の踊り子」のロケで吉永小百合さんが休憩したというソファーに座らして頂いたのを思い出しました。今は残念ながら、ソファーは無くなっていましたが、ロケのとき、Sさんのお身内と一緒に撮った若い吉永小百合さんの写真をメールで送って頂きました。

街を歩いていると、「欠乏所跡」という碑がありました。修好通商条約が結ばれる前、船で欠乏した薪水食糧などの交易した場所です。私にとっては聞きなれなかった「欠乏品交易」という言葉は、下田の人には馴染んだものだったことを知りました。

この日は曇り。帰りの特急「踊り子」からは伊豆七島は見えませんでした。帰ってから、下田で買い求めた金目鯛の干物を味わいながら、開国史の復習をしました。

 

山本先生の経歴、

 最後になりましたが、有造先生は經二さんの5歳違いの弟さんです。

京大人文科学研究所教授、中部大学教授を歴任され、現在は京大名誉教授。人文科学研究所の所長も務められています。

専門は計量経済史、日本経済史とくに植民地経済史、貨幣金融史。この分野では専門書を多数書かれていますが、アイソマーズ諸氏には少し難しそうです。

私たちにも馴染める下田の開国史は中部大学に移ってから手掛けたようです。