(図書紹介)

飯沼信子著『野口英世とメリー・ダージス‐明治・大正偉人たちの国際結婚‐』

(水曜社、2007年)

武山高之

 著者の飯沼信子さんとは昨秋、高知と東京でお会いした。

飯沼信子さんのご主人・星光さんのご両親が高知出身で、星光さんはアメリカ生まれの日系二世である。郷里の関係で、私の亡き義兄姉と親交があった。そのため、昨年来日された折に、飯沼ご夫妻とお会いする機会があった。東京での懇親会には、化学史学会の松本さん、堤さん、楠さんと私たち夫婦が参加した。みな飯沼さんのご著書の愛読者である。以下、本書の著者に親しみをこめて、「信子さん」と呼ぶことにする。

信子さんはロスサンゼルス在住のノンフィクション作家で、いま私より3歳上の84歳、日本ペンクラブ会員である。国際結婚をテーマにした著作が多い。科学史・技術史と違った国際結婚という側面からの記述が面白い。

本書には、明治・大正期に活躍した5人の日本人とその外国人妻のことが書かれている。日本人なら誰もが知っている野口英世。我々工業化学科出身者には馴染みの高峰譲吉、長井長義。有名な仏教学者・鈴木大拙。もう一人は松平忠厚。私は最後の人をこの著書で初めて知ったが、最後の上田藩主の弟で、アメリカで活躍したエンジニアである。

長井長義以外は、アメリカ人女性と結婚し、アメリカで活躍しているか、もしくはアメリカと日本の双方で活躍している。

私たちは、長年「化学史の旅」で、ドイツ・イギリスでの化学の先覚者とそこに学んだ日本人の跡を追ってきた。ドイツ・イギリスに留学して、学んだ日本の先覚者たちは、みな帰国して日本の発展に貢献したが、欧州に残って生涯その地で活躍した人を寡聞にして知らない。

 

1.取材に対する大変な執念

信子さんの経歴を拝見すると、70歳代後半になっても米国・日本はもちろんのこと、広くヨーロッパまで取材に回られている。まずは敬意を表したい。

とくに、私たちは「アメリカ化学史の旅」をする機会がなかったので、アメリカの取材は興味深く感じた。また、明治の日本人先覚者たち自身の記録はたくさんあるが、その外国人妻になると、記録が少なくなり大変だったと察する。取材に際しては、人脈の形成など大変な努力をしていると推察される。

 

この紹介文を纏めるにあたって、表題に挙げた著書のほかに、信子さんが書かれた次の4冊の著書を参考にした。

1)『野口英世とその妻』(人物往来社、1992年)

2)『高峰譲吉とその妻』(人物往来社、1993年)

3)『長井長義とテレーゼ』(日本薬学会、2003年)

4)『黄金のくさび-海を渡ったラストプリンス《上田藩主の弟》』(郷土出版、1996年)

 

最初に書かれたのは、野口英世のことだった。ニューヨークのウッドローン墓地に野口英世の墓を訪ねた時に、近くにある高峰譲吉の大きな墓にも立ち寄り、次のテーマに取り上げている。ついでながら、私たちが「化学史の旅」でドイツ・イギリスを訪れた折、日本人の墓を訪ねたので、ロンドン郊外のブルックウッド墓地だけだった。そこに葬られていたのは、客死した4人の若者であった。明治・大正の先覚者の墓には出会ったことがない。

 

2.外国人妻たちの内助の功

この時代は、日本のみならず、欧米でも男性中心の時代であった。この本に書かれた5人の日本先覚者たちはみな、よい外国人妻に支えられていたと思う。

長井長義高峰譲吉のことは、化学専攻の我々は、外国人と結婚していたことはよく知っている。とくに長井長義の奥さまが日本の女子教育に貢献した人だということも。

野口英世についても、外国人の奥さまがいたことも知っている人が多いだろう。労働者階級出身の奥さま・メリーさんを悪く云う人がいるようだが、信子さんの見解は、野口の研究を支えた、いい奥さんだったということである。

鈴木大拙という仏教学者は、アイソマーズ諸氏も名前はよく知っているだろう。私の手元に若い時に読んだ桑原武夫編『日本の名著』(中公新書)があるので、出して読んでみると、外国人の奥さまのことが書いてある。しかし、すっかり忘れていた。

松平忠厚については、私はその人の名前も知らなかった。信子さんの著書によると、アメリカ人の奥さまとの絆は強かったと察せられる。

 

3.他の外国人妻への連想‐来日した外国人妻たち‐

外国人妻といえば、近年、朝ドラ「マッサン」のモデルになった竹鶴正孝リタ・カウンが急に有名になった。ハッピーに終わった例である。

信子さんの本では、長井長義鈴木大拙が外国人の奥さまを日本に連れてきている。いずれも教養のある女性で、夫妻協力して、教育や学問のために努力された様子が偲ばれる。

ここで私の頭を過るのは、むしろ悲恋に終わった例である。

高知では知っている人が多いが、高知市出身の川田龍吉男爵がいる。男爵薯に名を残した造船技師である。岩崎弥太郎の命でグラスゴーに留学した時、親しくなった女性がいて、日本に連れて帰ろうとしたが、周囲の事情がそれを許さなかった。その女性と一緒に食べた馬鈴薯の味が忘れられず、その馬鈴薯の日本での普及を図り、男爵薯と呼ばれるようになったという。

森鴎外の『舞姫』『うたかたの記』も悲恋に終わった例ではないだろうか。

 

4.海外で活躍した日本人先覚者たち

 松平忠厚、高峰譲吉、野口英世の3人は、アメリカ人女性と結婚し、アメリカに移住している。明治時代に、ヨーロッパに移住して成功した人は聞いたことがない。移住したのはみなアメリカだった。

新しい移民の国アメリカでは成功の機会があったのだろうか。これらの場合、外国人妻の苦労は日本に移住する時のようなことはなかったと思うが、人種的偏見の問題はあったのだろう。

 明治の初めにアメリカに移住して成功した人として、長澤鼎を思い出す。薩摩スチューデントの一人として、幕末にイギリスに密留学し、その後、アメリカにわたりカリフォルニアでワイン王になっている。彼は生涯独身だったという。

 

5.信子さんが取り上げた、5人の先覚者夫妻に対する私の思い

 以下に、信子さんの著書に書かれて5組の夫妻について、信子さんの記載と私の科学史的知識などを合わせて、感じたことを書く。

 

1)            高峰譲吉とキャロライン・ヒッチ

高峰譲吉は明治初期に工部大学校に学び、後に英国スコットランド・グラスゴーに留学した。帰国後、アメリカ・ニューオリンズ万博に出張した際、現地で知り合ったキャロラインと結婚した。

一時キャロラインを伴って帰国したが、のちに米国に永住した。その後、日本とアメリカを往復し、理化学研究所設立(1917年)に貢献し、「模倣によらない独創的技術開発」を主張していた。

高峰の業績は、日本での過リン酸石灰の製造アメリカでのタカジアスターゼおよびアドレナリンの開発である。

過リン酸石灰は日本初とは云え、ヨーロッパ技術の模倣である。しかし、タカジアスターゼアドレナリンは世界に発せられた独創性商品であった。「模倣によらない独創的技術開発」は、このように独創的な発想でタカジアスターゼアドレナリンを開発した高峰だからこそ、自信を持って言えた言葉だったのであろう。この二つの薬は現代でも使われている大ヒット商品だと聞いている。

また、これらの製品は、キャロラインとの生活に支えられて、アメリカで開発されたことに意義があると思う。日本で開発されたのでは、当時は世界的商品として拡売することは難しかっただろう。

 タカジアスターゼは日本固有の麹かびを利用した独創性製品である。

アドレナリンは牛の副腎から抽出、再結晶により精製する非常に細かい技術が要る作業と推定される。共同研究者の上中啓三の腕の冴が感じ取られる。上中啓三の出身地の旧・兵庫県有田郡塩瀬村は三田の近くである。三田は幕末に「化学新書」を書いた蕃書調所の川本幸民の出身地として、化学史を学んでいる者には知られた土地柄である。そんな土地に生まれた上中は化学に特別な思いを持っていたのであろう。

高峰が一時日本に帰国した時、キャロラインが日本での生活に慣れようとして畳の上に正座する姿は、朝ドラ「マッサン」のエリーさんを彷彿させる。

2011年に故・山本經二君がアイソマーズ通信に紹介している高峰譲吉の伝記映画「さくらさくら」は信子さんの記載に基づいているらしい。高峰が尾崎行雄とともに、ワシントンDCに桜を送った逸話である。

 

2) 長井長義とテレーゼ・シューマッハ

長井長義は明治の第一次留学生としてドイツ・ベルリンに留学し、ホフマンに学んだ。ドイツで紹介されたテリーゼと結婚し、彼女を伴って帰国した。テリーゼは長井とともに日本の女子教育に貢献したことが知られている。

長井は日本近代薬学の祖である。長井の師・ホフマンは、化学者にとって非常に有名な学者である。私たちも「ドイツ化学史の旅」で、ホフマンが若い時に学んだドイツ・ギーセンのリービッヒ博物館、ホフマンが長年指導したロンドンの王立化学大学跡、ベルリンのホフマンの墓地を訪ねた。

ホフマンの師・リービッヒの学派からは、20世紀前半に約40名のノーベル賞受賞者が出している。そのうち、ホフマン学派からは5人のノーベル賞受賞者を出している。ホフマンは長井才能を見込んで、ドイツに残って研究を続けることを希望し、そのためテレーゼとの結婚を勧めたとも聞く。もし、長井がドイツに残ったら、ノーベル賞学者になっていたかもしれない。

しかし、長井はテレーゼとともに帰国する道を選び、日本の薬学会の発展に貢献した。その長井の時代から約130年後、大村智先生が抗生物質研究でノーベル賞を受賞したことは、誇らしい業績である。

話はかわるが、信子さんは長井がテリーゼと一緒にオペラを観に行ったときのことを書いている。鷗外にも漱石にも美術館に行った話は幾度も出ているが、オペラを観に行ったという記載は見たことがない。一緒に観に行く人がいなかったのであろうか。

 ついでながら、信子さんは長井の次男・ウィリー(維理)とペニシリンの話も書かれている。この件については最近、化学史学会で神奈川工科大学名誉教授の松本邦男氏が詳しく報告している。松本氏によると、情報を運んできたのは伊号第八潜水艦で、昭和185月に当時ナチス占領下のフランス・プレスト港を出港、125日にシンガポールに到着、同21日に呉港に着いた。医学雑誌数冊はシンガポールから空輸され、受け取ったのは、文部省の長井維理科学調査官で、数冊の医学雑誌が陸軍医学校研究部調査室を主宰する稲垣少佐に手渡された。その中にキーゼ論文というペニシリンに関する短い要約論文があった。直ちに、専門家による翻訳が始まり、日本でのペニシリンの研究が始まった。こんなところにも、長井の影響があったのは不思議である。

 

3)松平忠厚とカリー・サンプソン

松平忠厚は最後の上田藩主の弟である。1872年(明治5年)に渡米し、ニュージャージーのラトガース大学理学部に入り、土木工学技師となった。ラトガース大学には幕末から明治初期に40人以上の日本人が留学している。例えば、勝海舟や岩倉具視の子息も。

信子さんによると、松平忠厚は卒業後、アメリカに残り、アメリカの会社に就職し、土木技師として活躍した。アメリカ人女性のカリー・サンプソンと結婚したが、若くして結核で亡くなった。当時の土木工学技師は、日本に帰国すれば、間違いなく良い地位につけたであろう。それなのに、アメリカに残ったのにはカリーとの絆の強さが感じられる。 

 

4)鈴木大拙とベアトリス・レイン

著名な仏教学者の鈴木大拙は、米国で仏教の講演中に知り合ったベアトリスと結婚した。

その後、ベアトリスを伴って帰国し、龍谷大学で教鞭をとっていた。ベアトリスも龍谷大学で英語を教えていた。

信子さんは、昭和8年にベアトリスが英語で行った「仏教と実際生活」という講演の日本語訳を引用している。この講演は和訳でも私には難しい。この中に「無明」、「無我」、「法身」など難しい言葉が出てくるが、どのように英語で説明したか興味が持たれる。 大拙が仏教学をアメリカで講ずるに際して、その翻訳に苦労したと思われるが、ベアトリスの協力と理解が大きな助けになったことが窺える。

驚いたことに、彼女は昭和2年から8年の間に7回も高野山に参詣している。幸か不幸か、彼女は太平洋戦争が始まる前の昭和14年に他界している。敵国人という難しい立場にはならなかったであろう。

鈴木大拙は昭和41年まで長生きしている。西田幾多郎とは旧制第四高等学校での同級生であった。

 

5) 野口英世とメリー・ダージス

野口英世は米国での研究中にアイルランド移民の労働者階級出身のメリーと知り合い、結婚した。野口がアフリカで黄熱病に感染し、死んだあとは、メリーはアメリカで過ごした。

野口英世は、私たちの世代は、子供向け偉人伝で誰でも知っている偉大な科学者である。その上、千円札の肖像で毎日お目にかかっている。ところが、私が科学史に関心を持って調べてみると、野口は科学史上ではなかなか悩ましい人物である。彼の名を世界的に有名にしたのは、病原体ハンターとしての研究であった。

野口は1900年から1928年に黄熱病で亡くなるまで、数々の病原体を確認したと発表している。よく知られている野口の業績には、蛇毒(1900年)、梅毒スピロヘーターの証明(1911年~13年)、小児麻痺病原体(1913年)、狂犬病病原体(1913年)、南米・黄熱病病原体(1918年)、熱帯リューシュマニア症(1927年)、トラコーマ病原体(1927年)、アフリカ・黄熱病原体(1928年)などの研究がある。

信子さんによると、メリーとの結婚は1911年で、梅毒スペロヘーターの証明をした年である。その後の病原体ハンターの仕事は、この結婚生活の中から生まれたものと思われる。信子さんの記載では、メリーの役割は「サイレント・サポーター」だったという。これらの発見によりロックフェラー研究所の名声が高まり、野口はノーベル賞候補になった。

 ところが、後世の研究で野口の結果の幾つかは間違いだったことが分かった。とくに、児麻痺、狂犬病、黄熱病の病原体は、光学顕微鏡では観察できないウィルスであることが分かった。ウィルスが観察できる電子顕微鏡の発明は1931年である。このあたりは、西村三千男さんが2008年、アイソマーズ通信に紹介している次の本に詳しい。

福岡伸一『生物と無生物の間』(講談社現代新書、2007年)

 ただ、野口の研究が全部否定されたわけではなく、『理科年表』の「生命科学上のおもな業績」の中には、野口の「梅毒スピロヘーターの証明」は残されている。

 

追記) 飯沼信子『彫塑家・川村吾蔵の生涯』(舞字社、2006年)

国際結婚をテーマにしたものではないが、信子さんの取材力を示すもう一冊の本を紹介する。ここに挙げた彫塑家・川村吾蔵の名を知る人は多くはないと思うが、戦後作られた「マッカーサー元帥胸像」の写真を覚えている人は多いだろう。川村吾蔵はそれを作った彫塑家である。明治36年に信州・上田中学を卒業し、その後、ニューヨークとパリで活躍し、昭和15年に帰国している。

彼のアメリカでの作品を一つだけ挙げておく。最近、トランプ大統領就任後、よく話題になっている連邦最高裁判所の前にある「正義」と「審判」と名付けられた巨大な二つの像は、彼の作品だという。ただ、当時は公共的建造物を飾る彫像にはアメリカ国籍を持った作者の名しか書かれず、川村吾蔵は完全に黒子になっていたという。

 信子さんの業績は、その真の作者を解き明かしたことである。そのため、今は像の前に、川村吾蔵の名が刻されているという。