余談

 

私は子供のとき満州の新京(いまの長春)に住んでいました。小学生3年までは、近所の住んでいた非常に喧嘩の強い同級生にいじめられて、その虐めのために顔の傷がたえず、そのあと家に帰ると今度は母親に怒られて、「殴り返して来なさい」と家から放りだされ、喧嘩には絶対に勝てる相手ではなし、苦しい思いをしましました。なぜかその子供を贔屓する担任の女教師にも冷たくされ、実に暗い低学年時代でした。

 

小学生4年になると担任が男の先生になり、私は理科、工作、幾何などでトップになっていたためか贔屓されるほうになっていたようです。そのころまでには、その子供はどこかへ引っ越したのか姿が見えなくなっていました。終戦とともに、父親はシベリアに抑留、母と兄弟は3か月朝鮮に疎開、また同じ所へもどってはきましたが、戦争が終わってちょうど一年して、日本に帰国するまでは学校はありませんでした。

 

日本の小学校へは5年生の秋から編入となりました。一年間学校へ行っていないと話すと、それなら4年生に入れと言われたけれども、母親がガンと反対し5年生に入りました。しかし、他の生徒たちの学力は、私よりかなり低かったので驚きました。その学校では、私の言葉が地方の方言ではなく、ラジオみたいだという理由で、虐められました。また悪童が、自転車のチェインをもって学校に来て、顔のそばでブンブン振り回すのに恐怖を覚えました。中学校へ上がるとき、彼らと同じ学校へ行くのが嫌で、越境入学を試み、校長に直接談判したところ、親を連れててくるなら考えようというので、すぐに母親を連れて校長のところにもどりました。

 

その越境中学校は出来たばかりで、女の校長で、師範学校出でない普通の大学出身の先生ばかりを集めていました。そこで一人の生涯忘れることのできない先生との出会いがありました。

 

父親は4年間シベリアの炭鉱で働かされた後、教え子であったソ連の将校に出会い、その人の手配で日本に帰国することができ、家族を支えましたが、私が20歳の時(大学の3年が始まる前に)亡くなりました。

 

高校時代理科数学では苦労がなく、幾何では勉強しなくても大抵100点満点。数学では、春休み中に教科書をくれたので、1週間ほどで全部よみおわり、授業の時間は日の当たる席でもあったため、ほとんどは居眠りですごしました。ある日、授業参観で親父が来ていたのに、いつもと同じく寝てしまったのです。そしたら、先生が中村君!と呼んでいます。目をさまして立ち上がったけれども、何を聞かれているのかわからず困っていたら、先生が問題を繰り返してくれて、答えなさいといいました。結構面倒な数学の問題でしたが即座に答えることができました。忘れられない思い出の一つです。

 

大学に入学した直後、小学校のとき私を虐めた彼が京都に住んでいることがわかり、会うことになりました。大学には入れず浪人生活を始めていたようでした。その弟というのがまたひどい乱暴者で、当時の進駐軍の兵隊を、鴨川の淵から数メートル下の川床まで突き落とし肝臓破裂のため瀕死に追い込んだとのことで、とても喧嘩の相手に出来る人たちではないことが分かりました。かれらの父親は京都のどこか私立大学の教授をしてたようで、シベリア抑留の経験もなく、りっぱは家に住んでいました。今からおもえば、戦争の終わる1年前には日本に帰っていたのでしょう。

 

父親が亡くなったことと母親には私を含めて6人の子供がいて、経済的にはどん底の生活でした。大学に在学中に親の援助はなくなり、奨学金とバイトで賄いましたが、毎日片道2時間の通学の上、バイトにも結構時間がかかり、しかもオーケストラもやめられなったので、勉強する時間はほとんどありませんでした。大学の授業は主に有機でしたが、あまり興味がわかず、量子力学に興味をもったものの、化学専攻では数学の基礎が弱く、今から思えば、理解するのが不可能なやり方で、量子力学の理解の努力をしていました。しかし、そのとき習った変分法というのが、後で大きな役に立ちます。

 

就職は、当時給料の高かった有機化学関係ではなくて、電機会社でした。有機化学には興味なかったが、成績もよくないし、どうしようかと思っていたら、大きな電機会社がらぜひ入社してほしいといっている、との教授に言われ、それしかないかと思い、承諾したのです。卒業式のあとの教授たちを含めた懇談会で、卒業生に一言ずつ言わされる機会がありました。そのとき、大学では勉強しなかったけれど、これから本気で勉強する、と言ったら会場の一同から大笑いされたことが忘れられません。

 

しかし、その言葉どうりに寸暇を惜しんで実行しました。会社での配属は原子力部で、日本ではまだ始まったばかりで、技術的に高度の知識を持っている人は少なかったから、勉強する機会はあったけれども、仕事以外の勉強で、数学、原子核理論、量子力学、統計力学、原子炉理論、などの教科書を徹底的に理解するまで読み、演習問題を解きました。2年を目標とし、2年たって進歩がなければ、ほかの会社に移ることも考えたのです。残業はなるべくせず早く寮に帰り、夜遅くまで勉強。土日の勉強。それからまた2年ったった4年後には、学会で論文が発表できるようになり、さらにもう2年過ぎた時には、学会誌に掲載された英語の論文が5つはたまっていましたし、ウイーンであった国際学会にも発表していました。量子化学で習った変分法を用いて、原子炉の中性子拡散式を近似的に解く方法でした。変分法を用いて中性子拡散式を近似的ではなく厳密に解く手法は、海外でもヒットし高く評価されました。以前は一個の式を解くのに大型の電子計算機で何時間もかかっていたのが、その方法を用いると、10分くらいで解けるようになったためです。

 

これらの論文をもとにして博士号をとる機会が訪れ、大学卒業9年後の1967に、大学での専門とはまったく異なる分野で博士号を授与されました。そのころ、会社での地位も、部下に何人もの若い人が来たので悪くはなかったけれども、将来どうすればよいのか見通しが全くたたないことと、もっと勉強と研究したいのとで、周りの人の大反対を押し切ってアメリカの大学にまず助教授として就任したのです。会社にいたころの葛藤や上司からの軋轢の夢を今でも時々みます。

 

アメリカへ来てからは、研究の成果を出すことと、研究費を獲得することで苦労はあったけれど、約7年で正教授になりました。そのころまでには、原子力は下火になり研究費がえられなくなったのですが、NASAなどの援助があって、数値流体力学に転向することになりました。数学は十分に身に着けてはいましたが、流体力学は初歩から勉強しなくてはならなかったが、知らなくても流体力学の初歩を講義する機会をあたえて貰えたたので、勉強しながら、講義をするようなことをしました。後には大学院で、高いレベルの空気力学理論の講義を続けてやるようにもなりました。2005年70歳のときに退職しました。

 

虐めの話に戻りますが、中学入学以来暴力で身体に傷をつけられるようないじめはなくなりましたが、言葉で傷をつけられることは学生中も、社会に出てからも何度かありました。それらの人は頭がよく回り、何かつじつまの合わないところがあるのに、どうしても言い負かされてしまうのです。いつも悔しい思いはしましたが、いつかその人たちは必ず下のほうに落ちて行ってしまいました。人生の大きな経験でした。大学での地位が高くなるとそういう人も近付いて来なくなりました。地位の力というものはすごいと思いました。

 

5年前から陶芸を始め今も続けています。陶芸の教室では時々持ち回りで、誰かがおやつを持ってくるのですが、私は料理が得意で、最近飛び切り美味しいクッキーを作って持っていきました。陶芸の作業をしていると、すぐ後でロクロ回しながらおしゃべりをしている5人くらいの女性達の声が聞こえてきます。

「今日のクッキー、だれが作ったのか美味しいね」

「あれはショウ(私のあだ名)が作ったんだ。」

「その人本職の料理人?」

「ショウは確か先生だったはずだよ。ピアノリサイタルもやるし、ごく最近何冊かの本も出版したし、酒造りもやって、多才なんだ。」

そこまで聞いて振り返ると、後の名前はなんていうの?と聞くのでNakamuraと答えると、

「あ!学生のころあんたの書いた本で授業をうけた。」という人がいて、

私「じゃ、いまは機械技師ですか?」と聞くと、

その人「いや、ミシガン州のxx大学でサイコロジーの教授になりました。」

と、予想外の返事でした。私がオハイオ州立大学の原子核工学科で教えたことがあると話すと、ほかの一人が、

「え?甥がそこで修士を取ったのよ。たしか1975年くらいだったけど。」

その後ロクロに割り込んできた人とも、かなり長い間私の噂をしているようだったけれども、私は机に向きかえって仕事の続きをしました。陶芸工房での一齣でした。

 

中村省一郎