モスクワの思い出

 

大沢さんがロシアに行かれることを聞いて、御参考にと思って(一部は脅かしで)Emailしたのはかなり前になりますが、アイソマーズ諸兄にも(諸姉にはちょっと控えたい点あり)当時の想い出をご披露しておきます。大沢さんのようなアカデミックな話ではありません。時は1983年ベルリンの壁は厳存したし、各種交渉には未だカレンダーやパンティーストッキングが役たった頃でした。

 

御存知のようにソ連にとって外貨獲得の重要な手段は、シベリアの天然ガスをパイプラインでヨーロッパへ送って売ることでした。パイプ径は1m前後、その防食のための材料売り込みが我々の仕事の一つでしたが、ヒートサイクル条件が厳しく厳寒でガスが流れていない時と夏場ガス圧がかかった場合とで、たしかー50C~+100Cのテストを繰り返しました。

 

試作品が出来、シベリアでの施工テストの前に、モスクワに乗り込み(1983年9月)、ガス工業省、その付属中央研究所、ガス建設省、輸出入省等と交渉するのですが、組織が完全に縦割りで、横の連絡は全然とってもらえず、モスクワ駐在の商社員と当方で折衝に苦労したものです。

 

1983年9月と云えば、あの大韓航空機がカムチャッカで撃墜され、その報復でモスクワへ国際線が運行中止になり(フランス航空のみ運行)帰りの切符が買えず、数日間は電話も不通で「川崎モスクワに消ゆ」と日本の社内で噂されたようです。

 

当方はその間先方との仕事を続けましたが、先方も気を使ってパーティ等もよく開かれ、特に中央研究所では中間管理職は女性の方が多いくらいでしたが、公式の交渉以外では英語を使いたがり、パーティーでは勿論ウオッカで「川崎さん乾杯、乾杯」の連続。(尚、乾杯前にはバターの塊を食べるので何故かと聞くと、胃壁を保護しておくとのことでした。)

 

当方日本代表のつもりで、負けじと乾杯を繰り返したのはよかったのですが、ホテルへ帰ると(勿論一人でですよ)ベッドにバタンキュ。

 

ホテルの食事は悪く、肉はまずく野菜が少ないのには参りました。市内もあちこち見物し、印象に残っているのはモスクワ大学キャンパスで川を見下ろす小高い(写真撮影のスポット)で、新婚カップルが次々登場。あのスレンダーな娘さんがどうして後年あのような体型になるのかと首をかしげたものです。(モスクワ大学での学問とはおよそ縁の無い話)

 

さて、いろいろ帰国の手段を模索していると、ソ連機で東ベルリンへ飛びそこで西へのビザが買えることを知り、壁を抜けられました。壁を通過する前、バスに乗り込んでくる東独警官のいかつ顔つきと、壁通過後乗ってくる西独警官の愛想のよい顔の対比が忘れられません。(尚、通過道路は真っすぐではなくジグザグの繰り返しで、監視塔の上で兵士が銃をかまえている有様です。)

 

このようにしてソ連を脱出して帰国出来たものの、翌日は部長会で休養もとれず、疲労から帯状疱疹を発病して、これは後日まで尾を引きました。

 

ところで仕事の方はどうなったかというと、シベリア現地での実験は成功裏に終わった訳ですが、そのあと、測定器や防寒具等すべてソ連側に丁重に召し上げられ、担当課長や担当者は着のみ着のままで帰って来ました。それだけならよいののですが、肝心の受注は(数億円/月を予定していたのに)外貨が無いという理由で、一番安い防食方式が採用され、すべてパーになったというのが落ちであります。                         

 

川崎 幸雄