「中国の思い出」                

 

1.    長春訪問 

 

私には子供の時代から忘れられない食べ物がいくつかある。そのうちの二つが中国の思い出につながっていて、それらを思い出すと、中国で過ごした子供時代のさまざまな体験や当時の光景が、絵巻物のように目に浮かんでくる。ひとつは白系ロシア人の店で親が時々買ってきた、ゴーダチーズによく似たチーズで、ぶつぶつ気泡があり、赤い蝋の皮につつまれていた。もうひとつは、月餅の一種であって、ほろほっろとしていて、中にはなつめや杏のほか木の実がはいっており、独特の香りがあった。しかしこれらの味は、いまとなっては全くの幻の味であって、どんなに探しても見つからない。

 

このような経験があるというのも実は4歳から10歳までも約6年を、今の長春、かつての満州国新京で過ごしたからである。当時の家が大陸科学院(注)という研究所に接していて、よくあそびに行った。主な研究は化学だったらしく、どの部屋を覗いても、ビーカーや蒸留器や薬品棚の間を白衣を着た研究員たちが働いていた。頼むと、希硫酸など気安く呉れたので、電池の亜鉛などを解かして遊んだが、そのあとがいけなかった。2週間もしないうちに、服や畳に大穴があいて、親に叱られた。私が大学で化学を専攻したのも、今から考えると、このようなことに刺激があったのせいかも知れなかった。

 

終戦は10歳の夏だった。父親は大学務めであったが、終戦日の一週間前に応召になり、同時に家族は朝鮮に疎開となった。3ヶ月して、朝鮮からもどったときは、父親はソ連に捕虜として抑留されていたのである。その翌年に日本へ引き揚げることが出来た。その間、忘れられないのは、当時の父親の学生であった中国人のMさんで、何かにつけては高粱などの食料をもってきては、私たちの一家を助けて呉れた。そのMさんは今もおなじ都市にすんでいて、当時から何十年もたってから、再会することになる。

 

さて話は飛ぶが、私の職業も職場も何度か変わったが、その間いつも研ぎすましていた武器があった。それは数値解法の知識である。これを用いて微分方程式を差分に直して解くのである。私のこのような能力に目をつけたのが、外国の境界層の理論屋達であった。かれらの多くは、難しい式を書くのだが、自分らでは解けないのである。あるとき、私がいとも簡単にそんな式を解いたのを知って、何人かの境界層研究者が私に近ずき、これもこれも解いてくれといってきたことがあった。丁度そんなとき北京で境界層の学会が開かれた。学会の内容などどうでもよかったのだが、招待講演に指名されると旅費がでることと、どうしても一度中国をみておきたかった。それで、結局中国出身の大学院生を一人連れて、一週間の北京訪問をした。といっても、その間二日はぬけだして、長春へMさんに会いにいったのである。北京から長春までジェット機で約一時間、航空券は同行の学生が北京で手配して呉れた。

 

50年ぶりで会うMさんには当時の面影があった。製氷会社を経営している息子の車の案内で、市内や、昔住んでいた家の近くへ案内してくれた。しかし50年というのは長い。駅前も、大通りも、大学も、昔の家も、みんな変わってしまっていた。

 

Mさんの親切な人柄は昔のままだった。夕食に出された餃子の味も昔のままだった。しかし、Mさんの生涯は、終戦前日本人と親しかっただけに、大変だったようだ。常に親日人という判子を押され、いやがらせにあう毎日であったという。それでも、建築士の資格を得、学校などの大きな建築物の設計士として他人の出来ないことをやってきたおかげで、公の機関はMさんを無視するわけにはいかなっかたのだという。白系のロシア人たちは、終戦のときどこかに姿をけしてしまったという。こんな話を聞きながら、時間はまたたくまに過ぎてしまった。

 

翌日、飛行場にゆくまえに、私の月餅の思出を知っていた彼は、私の丁重な断りも聴かず、二箱ぎっしりの月餅を買ってくれた。長春で最高の店の品ときいた。

 

飛び立つ飛行機から見下ろすと、少年時代にモロコ、フナ、エビ、ナマズ、貝類などをすくって取った湖が遠方にみえたが、干上がって小さくなってしまったように思えた。

 

北京に戻ってから、月餅を味見したら、形は実に美しいのに、味はひどかった。

小豆の焦げた味が強く、ジャリとした砂の感触が混ざり、Mさんには気の毒なことながら、とても持って帰れる品ではなかった。その何年かまえに、中国を訪れた友人が、共産党政府の国営食堂では、おいしいものは出来ないんだ、と評していたのを思いだした。

 

このようなわけで、少年時代に味わった月餅の味は、その土地にいっても最早見つからないことがわかったのだが、横浜の中華街で売っている優雅な中華菓子と比べると、まだまだ中国の人達は、苦しい生活を強いられていて、味覚では我々とは全く別世界にいるようであった。

 

(注。長春訪問のとき、元大陸科学院の建物はそのまま残っていたが、赤や緑色の山門を思わせるような正門ができていた。あとで、岡崎に住む化学専門のある友人にきいたことだが、よく知られた化学研究所になっていて、日本人もよく訪れるという。長春の駅からまっすぐ南に8Km、市のほぼ南端にある。アイソマーズの方で訪れたことのある人もいるかも知れない。)

 

 

2.   中国の楽器

 

前節で北京での学会に出席したことを書いたが、その学会中、昼夜食事が学会で用意されたのである。食事は毎回、会場から数分歩いたところにある飯店であった。その一角に舞台があって、食事のあいだ、踊りやら、民謡の演奏がくりかえされるのであった。

 

音楽を奏でる楽員はたったの一人なのに、その楽器の多さと、また楽器の形に驚いた。そこで、二日ほどたったある日、演奏が終わって踊り子達が舞台から引き揚げた後、私もそのあとをついて舞台裏にゆき、種々の楽器をみせてもらったのである。ギター、クラリネット、笛、竹笛のハーモニカ、など西洋の楽器と共通しているのだが、それでいて、ひどく違うところもあり、一つ一つが驚異であった。その後数年たって中国の楽器に驚異の接触をする機会が再度きた。

 

話が飛ぶが、私の共同研究者の一人に化学工学科の教授のBさんがいる。もうとっくに退職し名誉教授なのだが、いまも教鞭をとり、研究をつずけている。流体力学の実験屋で乱流の研究者として名の知られている人である。彼と私はお互いに自分のないものを相手に見つけて共同することで大きな成果がでることが分かり、それ以来協力関係にある。そのBさんのところに、中国人のZさんがいて、博士号をもってはいるが、万年助手のような形で長年働いている。Zさんと私の付き合いも長い。

 

Zさんは自分で率先して論文を書こうとしない。そこで私が心配して、共著の論文を書くように仕向け、彼の名前が先頭に出るように手配する。そんな彼と一緒にシカゴでの学会に出かけたことがあった。教授のBさんは彼のために旅費を十分に出してはやらないので、こんなときは、わたくしの部屋に泊らせてやらなければならないが、ユーモアがあり気さくな人柄なので、旅の道ずれには苦にならない。

 

シカゴに着いた日の夕方、シカゴシンフォニーの音楽堂のそばを歩いていたら彼の目の色が急に変わった。何かと思ったら、中国から民族音楽の楽団がやって来て、2日後に公演するという。高い入場券だったが、私も買わされてしまった。

 

中国の民族音楽というのは主に宮廷音楽の伝統を継ぐもので、悲劇の皇女の悲しげな物語を歌にしたものとか、貴族が食事や就寝のときに奏でさせた音楽など、歌と楽器の演奏が続いた。楽器は古来からのびわや、胡弓、笛などが使われたが、非常に驚かされたことがあった。

 

それは約50人くらいの楽団の編成と、使われている楽器の種類であった。西洋の管弦楽団は、弦楽器の5組、さらに木管楽器、金管楽器、打楽器の組から成り立つ。この中国の楽団もほぼ同じ編成になっていた。しかし、ヴァイオリンの代わりに胡弓が使われ、ヴィオラも少し大型の胡弓であった。チェロは西洋のチェロの形を変えて作り直した形をしていた。西洋のチェロは胴の半ばでくびれていて、弓を自由に動かせる空間がある。中国のは色も材質もそっくりだが縊れがなく、胴が亀を思わせる形をしていた。弦の数は3本だったように思う(西洋のは4本)。コントラバスも同じ構造であった。それで、弦楽器だけが合奏すると、西洋の管弦楽団が出すのとほぼ同じような、それでいて何かちがっていて、哀しげな響きに聞こえた。

 

管楽器には実にさまざまな楽器が使われていて、たとえばオーボエの位置には笙(ショウ)、フルートには木製の横笛、といった具合に古来からの楽器が使えるところはそのままつかわれていた。

 

亀のような形のチェロとコントラバスは強烈な印象として残った。これらは古来の楽器ではない。しかし低音の楽器を導入するとすれば、音響効果からは西洋の方式を導入し、しかも伝統的な胡弓の形を受け継ぐとすると、このような形になるのであろう。

 

演奏会がおわってZさんは故郷の音楽に満足しきっていた。私のほうは、2時間にわたる中国風のメロデイーに少々うんざり気味であったが、初めての楽器の種類と音色の観察に満足していた。しかし、私に何がそんなに面白かったのかは、彼には通じなかった。