2003.3.26修正

西 村 三千男 記

 

余談「日本の火酒」

 

1.黒じょか

身近に鹿児島県人が二人いて、焼酎には少々うるさい。お湯割りは「黒じょか」

という小道具を使うべきだという。平べったい黒い陶製の土瓶の様な器である。

これに焼酎と水を入れて直火で燗をつけるのが文化だと主張する。グラスの焼酎

にポットのお湯を注いで、梅干を入れて箸で突っつくなどはもっての外で、焼酎

道に反すると憤慨する

 

2.鹿児島県には清酒蔵元は一軒もない

鹿児島県人は飲むのは大概は焼酎であって、清酒は殆んど飲まない。地酒の醸造

元も焼酎ばかり。ずっと以前に一軒だけ清酒の蔵元があったけれど、売行き不振

で廃業したと言う。隣接する宮崎県、大分県、熊本県などには清酒の蔵元もある

ことはあるが、やはり焼酎が主流だそうだ。

 

3.ワンカップは焼酎

四半世紀も前の古い話であるが、日豊線大分駅のプラットホームのキオスクで単

に「ワンカップ」と注文したら「ワンカップ焼酎」が来た。買い手の私は漠然と

「ワンカップ大関」をイメージしていたが、売り手は当然、至極、何の疑念も無

く「ワンカップ焼酎」を呉れた。旭化成・延岡のビジネスパートナーにこの話を

すると「それがどうかしましたか?」と言う顔をされた。

 

4.天の美禄、紅乙女

乙類焼酎の原料は長らく米、大麦、芋が主流であった。1975年頃から高千穂

のソバ焼酎の好調に刺激されて本格焼酎のブームが惹起された。ヒエ、アワなど

五穀を始め、トウキビ、黒糖などデンプン〜糖質を含むものを手当たり次第に原

料にして様々の冠焼酎が開発された。遂にはデンプンや糖質を殆んど含まない筈

なのに緑茶やゴマを冠に付けた焼酎が出現した。気取ったネーミング(緑茶は

「天の美禄」、ゴマは「紅乙女」)とヘルシー感覚で話題を呼んだ。当時からこれ

は行き過ぎとの議論もあったりして、その後広告でも見なくなって下火になった

のだと思っていたが、ネット検索すると今も続いている様である。

 

5.むぎ焼酎「玄海」

電気化学の研究所は協和発酵の東京研究所と隣接している。両社ともに給水ヘッ

ドタンクを広告塔にしている。第一次の乙類焼酎ブームの頃、協和発酵の広告塔

には「むぎ焼酎・玄海」の看板を掲げてあった。これが遠くからもよく見えたの

で、社外から電化の研究所へ来訪されるお客様にアクセスを説明する時「『むぎ焼

酎・玄海』の看板の隣です」と使わせてもらった。

 

6.ホワイトリカー革命

1983年某月某日、アイソマーズ東京組が新宿・三井倶楽部に集まり、初めて

の本社勤務となり新潟の田舎から東京へ転勤した西村を歓迎してくれた。ワイン

事業に着手していた協和発酵の永岡さんが商売もののワインを持ち込んで下さっ

た。そして「ワインが日本人の生活に定着するようになり、年率20〜30%の

伸びとなっている.その一方で焼酎は年率200〜300%も成長している.」と

解説されて皆を驚かせた。焼酎は年に3〜4倍と爆発的に成長してウィスキーの

売行きに急ブレーキがかかり、サントリー等が慌てていたのである。ホワイトリ

カー革命とか騒いでいた。当時の電車の中のつり広告の主流はサラ金、結婚式場

と並んで「純」「トライアングル」「燦」などブームさ中の焼酎であった。

ところで前項の協和発酵・東京研究所は同社が「酒類、食品の優良会社からバイ

オ・医薬の超優良会社」へ変身するエンジンとも言うべき位置づけであった。バ

イオ・医薬の研究を担当し、同所の所長から次々と社長を輩出した出世コースで

もあったそうだ。我々京大工化会の大先輩であり、同社の創業者でもある加藤弁

三郎氏を顕彰する加藤記念館も付置されている。そこでは国際的なセミナーでも

開催出来るレベルの施設となっている。その研究所の給水ヘッドタンクの広告塔

に「むぎ焼酎・玄海」の看板を掲げることに何らの違和感を感じないくらい当時

の焼酎は先端的?であった。

 

7.大ペットボトル「大五郎」

これはずっと後年の協和発酵・つくば工場での見聞。そこに併設されていた食品

研究所を見学した機会に焼酎の充填工場をも見学させて貰った。2.7リットル

のハンドル付ペットボトルに甲類焼酎「大五郎」を自動充填、自動ダンボール包

装していた。「これは業務用でしょうか?」と質問すると「いいえ、家庭用です.

大瓶に根強いフアンがおられます.業務用にはもっと大きい4リットル詰めがあ

ります.」

(現在は協和発酵の酒類事業はアサヒビールと経営統合され、「大五郎」もアサ

ヒブランドとなっている)。

 

8.焼酎、梅酒、醂し柿

子供の頃から焼酎のイメージは「安かろう、悪かろう」であった。私は下戸の家

庭に育ったが、母の実家に行くと母方の祖父と伯父が晩酌に焼酎のお湯割を飲ん

でいた。戦争中の物資不足から清酒が入手出来なくて仕方なく焼酎で我慢してい

る風情であった。

社会人となり、家庭を持ってからも焼酎を飲む対象とは考えなかった。時に梅酒

の原料として、また醂し柿の渋抜き用として購入しても、その使い残しを飲用に

することはなかった。

  焼酎を意識して飲んだ初体験はソバ焼酎。場所は延岡の或る割烹での懇親会の席

であった。その経緯は先に「ソバ焼酎の濫觴期」に書いた。

                              (おわり)