我が追憶のハイデルベルク、そしてドイツ

第6話  フラウKとその家族

ドイツ社会には日常生活にかなり厳格なルールがある。「決められた曜日以外に

は洗濯物を外に干してはいけない」「夜10時を過ぎたら騒音を出してはいけない

ーーー例えばシャワーは不可、水洗トイレやバスの水も流さずに朝までそのままに

しておく」等はよく知られている。これらとほぼ同様に「窓ガラスはいつでもきれ

いに磨け、窓に花を飾れ、住居内外の美観の維持」も求められるのである。私がデ

ュッセルドルフに駐在を始めた1965年頃、当時は事前の情報も少なく、外国人

で経験も未熟な私の家内では出来ないこと、分からないことも種々あった。

Putzfrau(掃除婦)というドイツ語がある。あまり響きのよい言葉ではない様に

感じて私はこの単語をなるべく使わないようにしている。駐在当初、知人からフラ

ウKを我が家の Putzfrau にと紹介された。働き者のフラウKが週1回来てくれる

ようになって我が家の整理整頓は軌道に乗った。家内はフラウKからドイツ流の掃

除、洗濯、炊事、育児を学んだ。また、第2話でも述べた様に、フラウKの来宅日

には当時まだ幼児であった長男をフラウKに託して家内はベルリッツのドイツ語教

室へ通学した。

 フラウKのご主人はその頃鉄工所勤務の職人であった。10年くらい前に定年退

職して今は年金生活である。現役時代から夫婦で堅実な生活を貫いて、デュッセル

ドルフ郊外にドイツ風の戸建て住宅を持った。花いっぱいの前庭の他に、家の後ろ

には広い畑があり野菜と花を栽培している。当時も今も夫婦で勤勉に働き、家の中

はフラウKが、周囲と畑はご主人が整理整頓を担当している。

フラウKの実家が私の家に隣接していたこともありフラウKの母親、甥姪たち、

フラウK自身の子供たちとも接点が出来て、家族ぐるみの交際が徐々に深まった。

フラウKは一男一女の子持ちで、その子供たちは私たちの長男よりも少し年長であ

った。フラウKの自慢の長女は聡明で気立てがよく親孝行である。結婚後も両親の

近くに住んで、父親に得意の手仕事を依頼したり、母親の相談にのったり傍で見て

いて感心する。一方の長男は離婚歴があり、失業中でフラウKの頭痛のタネである。

当時のデュッセルドルフの日本企業駐在員とその家族の間には日本人コミュニテ

ィがしっかりと出来上がっていた。その中で日常を過ごせば日本語だけで快適生活

が約束されていた。そのかわり、ドイツ人との接点が希薄になりドイツ社会への理

解も乏しくなる道理である。私達夫婦は住所の立地が日本人特区から離れていたこ

ともあって、庶民的なドイツ人(K家族や別のS家族など)との交際をより重視し

て生活していた。

数年後に転勤して帰国した後も、私はヨーロッパ出張の度に多少の時間的無理は

遣り繰りしてでもこれらの家族を訪ねて国境を越えた友情を確かめあった。時間が

許せば、彼等を日本料理にご招待したり、彼等のドイツ式のお茶タイムに招待され

たりを長年に亘り継続してきた。

家内が帰国後、初めてドイツを再訪したのは1988年の銀婚旅行の時だったか

ら、帰国から丸々20年が経過していた。K家族も別のS家族も空港まで出迎えて

くれて、抱き合って再会を喜んだ。その後、家内は毎年のように種々の理由を見つ

けてはヨーロッパへ旅行し、K家族のところにホームステイする。

ずっと後で分かったことだが、1965年頃はフラウKにとって外国人の家庭で

Putzfrau をしているのはやや肩身の狭いことであったようだ。まして、当時地位

の低かった日本人家庭であれば尚更のことであった。いま振り返ると、信じられな

いくらい日本の国際的な位置付けは低かった。当時の日本は造船、カメラ、トラン

ジスターラジオなどで世界をリードし始めてはいたが、その地位は同じ敗戦国であ

るドイツより遥かに低くて「イタリヤ以下、スペイン並み」が実感だった。

幾星霜過ぎて、日本も経済的発展し、国際的な位置付けも相応に向上したことも

あって、今ではフラウKは日本の友人を持ち、日本人が来訪してホームスティし、

時々は日本料理に招待されたりもする「日本通」であることを彼女の自慢としてい

るようでもある。

                            (第6話おわり)

                         2002.8.17.記