奈半利川

‐父の思い出‐

武山 文子

 

想い出は蘇る

薄暗い手術室のドアを恐る恐る押してみた。床はタイルである。茶や青のクスリ瓶の棚がある。手術用具のガラスの戸棚には、メス、ハサミ、注射器が綺麗に並んでいる。埃を被ったステンレスのバット、ホーロー容器、消毒用の蒸し器がある。父が愛用していた額帯鏡もある。

少し黴臭い匂いもして、ひんやりしている。四十年前、白いレース編みの診察キャップを被った父が、中耳炎の患者さんの手術を盛んに行っていたときのことが目に浮んできた。

〈コンコンと響く骨を削る槌の音〉とともに。

 

 父が亡くなって、もう二十年になる。父の病院はそのままに残されていた。一時期、父の甥が鍼灸院を開いていたこともある。その後、私の娘が三年間アトリエに借りて、大きな作品を製作してきた。建物に染み込んだ父の魂が、娘の腕を上げてくれたかどうかは別にして、アンティークな物に囲まれた診療室アトリエは、いい雰囲気だった。

 

木造の建物はいよいよ老朽化が進み、取り壊すことになった。薬局のほうに回った所にある木の戸棚の中には、二つの頭蓋骨が置いてあった。中学・高校のときから、怖いが見てみたいという物だった。

父はこの頭蓋骨で、骨・耳・鼻各器官と神経・血管を立体的に把握していたようである。いつも眺めながら立体構造を脳裏に叩き込んで、手術前にイメージ・トレーニングをしていたそうである。

 

兄・正人が建築家を志したとき、

〈立体的認識力が優れている遺伝子が、子にも伝わっているので、建築向きだ〉

と励ましていたと聞く。

〈トレーニングをろくにせず、手術で顔面神経を切る下手糞な医者がいる〉

とも、よく言っていた。左利きの父は両手が使えて、有利でもあった。

 

後に父の志を継いで、耳鼻咽喉科の医者になった弟・義人に聞いたところ、この頭蓋骨は戦時中、軍医の促成機関として設けられた高知医専から譲り受けたものだそうである。このようなイメージ・トレーニングは、いまでも行っているらしいが、実際の頭蓋骨ではなく、模型が使われているという。二つの頭蓋骨は、弟が勤務先の大学病院に持って行き、丁寧に収められた。

 

腕に覚えあり

父は高知で、五十年にわたり、開業医として働いた。

〈弁慶の千本刀ではないが、扁桃腺の一万五千個取り〉

と、生涯の手術数を語っていた。

 また、

〈早い、きれい、出血が少ない、治りが早い、入院なし〉

というのが、父の自慢だった。八ミリカメラで手術の記録を写したものがある。扁桃腺を取るのは三秒、全手術で三十秒、一日二十人以上を手術していた。

 

弟は、いつも父の手術の手先を見ていた。

 大学で研修医のとき、同僚から、

「君は、ずっと前からやっていたように、上手にやるね」

と言われたそうである。父のDNAを受け継いでいるのだろう。

 

父の元患者さんが、東京のある大学病院で診察を受けたときのことを、聞いたことがある。診察に当たった医師は尋ねた――。

「この手術は、どこで受けたのですか。うーん、上手ですね!」

「高知の安岡病院です。三十年ほど前に」

奇麗な手術の跡を見て、地方にも腕のいい医者がいることに驚いていたそうである。すぐれた手術の見本として、学生たちに示された。父は器用なだけでなく、勉強し、体調維持にも努力していた。指先が震えないように、酒は控え、タバコは吸わなかった。

 

チャレンジ精神

昭和三十年ごろ、鼓膜形成術にも、いち早く取り組んだ。この形成術は昭和三十年代に欧米の文献に発表され、昭和四十年代から広く普及している。大きな病院ではチームを組んで行っている、顕微鏡下手術である。

 

地方の一開業医である父は、他に先駆けてこの手術を行っている。まず、欧米の文献を読み、必要な双眼顕微鏡を購入している。当時、百万円もする高価なものであった。この形成術の症例は十例ぐらいだったらしいので、採算は合っていない。もちろん高知では初めてであり、日本でも早い症例であった。

 

直径六ミリの鼓膜に、体の他の部分から膜を植皮する技術である。ポイントはできるだけ薄い膜を使うことで、内股や上腕部の皮膚を薄く剥がして使っていた。下手な人が貼ると、内部が癒着して動かなくなり、うまくできなかったらしい。十センチ四方の布切れを縫って、パッチワークを作っても、ずれてしまう私など、六ミリ四方の手作業など想像も及ばないことである。

音響工学が専門の兄は、父から依頼されて、当時なかった特別な聴力検査機を作成し、父をサポートしたようだ。

 

この精密な作業を、父は五十代後半で行ったわけである。電気工務店を営む梅谷さんは、十五歳のときに鼓膜形成の手術を受けた。父が亡くなってからも、ずっと実家のことをなにかにつけて手伝ってくれている。小さな声もすぐ聞こえる再生鼓膜を持つ梅谷さんを通じて、父は凄いことをしたのだと思うのである。

 

当時の流行に合わせて、隆鼻術にも取り組んでいた。診療室の奥の納戸には、石膏のマスクが並んでいた。術前・術後のマスクの違いには、なるほどと頷けた。象牙やセラミックを使用していたようだ。

 

私が嫁入りしたとき、姑が私に言いました。

「あんたの鼻は本物かね?」

〈えーっ!そんな〉

と思った。が、子どもが生まれ、三人とも、みな鼻は高かったので、その疑いは晴れた。

 

アンクル・徳弥

父・安岡藤吉は、高知県安芸郡奈半利町で日露戦争開戦の年に生まれた。奈半利町は安芸市と室戸岬の中間にある海岸の町である。

 古くは紀貫之の『土佐日記』に奈半〔なは〕の泊りとして、出てくる所である。幕末には多くの志士が出た血気盛んな土地柄でもあった。

 

 この風土は、藤吉に影響を与えていると思われる。安岡家は先祖代々ここに住んでおり、自作農であったと聞く。先祖については、藤吉の叔父・徳弥が移民先のアメリカから、五十年以上前に藤吉に宛てた手紙に興味あることが書かれている。

この手紙は最近、実家を整理していたら、箱の中の箱にひっそりと眠っているのを見つけ出したものである。手紙には、藤吉の兄である郷土史家の大六の意見を批判したくだりがある。

 

 引用する――。

〈安岡家の先祖が、奈半利、吉良川〔奈半利と室戸の中間〕を占領したといい。さらに椎名〔室戸の東〕までも占領したというのはおかしい。云々〔中略〕皇族の子孫であるというのは断じてよくない〉

とある。

 

 農民が、なぜ戦争をしたのか疑問であるが、長曽我部の時代には、土佐では農民と武士の区別がはっきりしていなかった。いずれにしろ、安岡家には激しい血が流れているらしい。皇族の子孫というのは、単に平家の落人という話に繋がるだろう。

徳弥は明治中ごろ、移民としてカリフォルニアに渡り、米作りに精を出した人である。

 

藤吉はこの徳弥叔父さんとはウマがあっていた。アメリカから伝えられる進んだ世界に憧れていたかもしれない。

大正の終わりのころ、徳弥から藤吉に英語の本が幾つか送られてきている。実家にある父の手作りの本棚を物色していて見つけた本だ。

 

 その一つは『ウェブスター英英辞典』〔一九一七年、ニューヨーク〕である。そこには〈アンクル・徳弥より藤吉へ。一九二三年三月一日〉と英語で書かれていて、その下には〈大正十二年三月一日、米国より来たる 藤吉〉と書かれている。たったこれだけである。しかし送ったほうにも、受け取ったほうにも満足感が溢れている。このころ、藤吉は旧制高知高等学校第一回生として学んでおり、知識欲に溢れていた。徳弥としても英語の本を送る相手として、一番送り甲斐のある人だったと思われる。

 

この学校の建学精神には、〈感激なき人生は空虚なり〉と謳われていた。また、修学上の態度として、〈努力、基礎的修養、語学の練習〉とあり、生徒たちの歌う『豪気節』には、〈この岸寄する大波は/カリフォルニアの岸を打つ〉と謳われており、藤吉の人生観にピッタリと合っていた。

 

向学心に燃えた青年は、土佐の片田舎で夢を膨らませ、太平洋の向こう、憧れの米国から、一歩進んだ新しい風を吹き込んでくれるアンクル・徳弥の存在は、大きなものであったと想像できる。

 

悪ガキ、医者になる

藤吉は、父・房太郎と母・作芳の二男として、明治三十七年十月十二日に生まれた。兄・大六と弟・関治がいた。房太郎は独学で小学校の校長になったが、盲腸で若死にした。気丈な母は、祖父の藤太郎とともに農業に精を出し、三人の男の子を育て上げた。

 

藤吉は、幼少のころからのすばしこさは群を抜いていて、野山を走り回り、イモやカキを盗んでは、捕まるのは、いつも友だち。藤吉は逃げ足が早く、涼しい顔をしている悪ガキだった。夏には、町外れの奈半利川で泳ぎ、ゴリやエビを掬い、ウナギを取って、一日を過ごしていた。水に潜って、アユを長い柄の金突き(ヤス)で突くのも名人だった。

 

安芸中学生だったころのこと、大正十年の話である。当時の安芸中学は、県立第二中学として、高知県東部の生徒が通っていた。交通が不便な時代であり、多くの者が寄宿舎生活をしていた。

あるとき、校庭のビワが盗まれる事件が起こった。

 舎監の先生は、

「誰じゃ! 取ったのは」

と詰問し、生徒たちに白状しろと迫った。

 すると藤吉が前に出て、

「自分です。みな腹がへっちょったきに。自分が取って、みなに分けちゃったがです」

と言った。

 

職員会議では、

「そんな生徒は退学じゃ!」

「取ったのは安岡。これは悪い。けんど、一人で食ったがじゃない。みんなに食わしちゃった」

「食った奴も悪い」

「だれっちゃあ、取らんともったいないき。まあ許しちゃれ」

と、議論がなされた。藤吉は、品行方正ではないが、性悪ではなかった。

 

「学力優秀な安岡を退学させるがは、国家の損失」

と、まあこれはちょっとオーバーだが、弁護してくれるチンという綽名の柔道の長崎先生の一言で救われた。後に藤吉が医者になってからも、この先生とは交流が続いた。

このように、藤吉は《学力優秀、品行最悪》で、卒業時の金モールは逸したそうである。

 

父・藤吉のこのような悪戯は、長じて医者になってからも続いた。終戦直後の食糧難のころのことである。焼け跡に3DKのバラックを建て、庭にカボチャやトマトを作り、ウナギを捕って、六人の子どもたちを養っていた。当時、除虫菊の成分から取ったゲランを使って、魚を酔わせて捕る密漁がよく行われていた。父も、ゲランを川に流し、フラフラになったウナギが石の間から出てきたところを《うはし》を使って捕っていた。兄も小学生ながら名人だったそうな。

 

「おとうちゃん。美味しいそうなのが顔を出しちゅう」

と、立派な助手を務めていた。

見付かったら、〈事〉であると、母は心配していた。捕れたウナギは頭も骨までも、大切な栄養源となった。

 

子どもたちが成人してからのことである。友人の医師・久野村先生と一緒にドライブを楽しんでいた父は仁淀川上流の河原で、ころあいの石を見付け、取っていると、営林署の人に見付かり、

「コラ!お前らは石屋か」

と一喝された。

 仁淀川にはいい石があり、商売のために石を取る人が多く、採取は禁止されていた。

藤吉はすかさず、

「イシヤじゃないぞ。わしゃ、イシャじゃ」

と言い返したという。

 

 その結果、逆に営林署員は石運びを手伝ってくれたとか。よい石を求めて、仁淀川も吉野川も、果ては物部川上流まで遠征した。たくさんの石のコレクションは、狭い庭に据えられ石庭となった。しかし、草花の好きな母には嫌われていた。ずっしりとした石の重さは、腰に積もり、晩年腰痛に悩まされ、少しへっぴり腰で歩いている父が愉快でもあった。

 

このように、小さな悪戯は数え切れないほどしたが、父は曲がったことの嫌いなイゴッソウでもあった。

〈へごなこと〔曲がったこと}をするな!〉

〈うんと、むくれ(努力しろ)!カネは人に盗られるが、勉強して得た知識や技術は盗られんぞ〉

というのが、子どもたちに対する教育勅語であった。

 

都会人にならなかった、野性児

父は生涯都会人にはなれず、野性児であった。私は結婚し、西の日高村に嫁いだ。私たちが帰省したときなど、起き抜け一番、高知市内から車を走らせ、孫の顔を見がてらやってきた。夫の父から借りた仁淀川べりの畠で、スモモや野菜を作るのを楽んでいた。

 

「文子はえいところへ嫁に来たなあ」

と、収穫物を片手にニッコリ笑っていたものだ。この野性児の遺伝子は末弟・博人に引き継がれている。埼玉にある会社の空き地で、趣味で栽培しているシイタケ・リンゴ・ブルーベリーなど、いつも送ってくれる。

 

風呂は、薪を燃料とした五右衛門風呂であった。

「沸いたぞ。早う入れ」

の父の声が耳に残っている。

湯船に浸かっていると、

「ぬるいか」

と、小枝をくべてくれる。パチパチと燃える音も、父と娘を暖めてくれた。このタキギ風呂は、燃料が近所の洋服店の反物の芯に変わりはしたが。亡くなる数年前まで続いていた。子どもたちに伝授された薪割の技術は、いまも生きている。

 

〈高知市医師会長〉、色紙は娘に描かせる

藤吉は、九大医学部を卒業したのち、しばらく研究室に残り、昭和十年ごろには博士号をとった。

昭和六年、二十七歳の藤吉は二十二歳の泰と結婚した。香川県観音寺の病院を皮切りに、九州の若松市民病院や別府病院、さらに国次病院と経験を重ねて、昭和十一年に高知市帯屋町に開業した。後に、いまの大橋通りに移った。戦時中には、身長が低かったため第二乙種で招集を免れ、警防団長をしながら開業医を続けられた。

 

高知市は昭和二十年七月四日、B29の空襲に遭い、安岡家も焼け出された。さらに、昭和二十一年十二月二十一日の明け方、南海大地震による津波は高知市に大きな被害をもたらした。このような困難な時期を潜り抜けた父は、病院とバラックの住居を建て、診療に当たった。

 

昭和二十八年から三十三年の間には、高知市医師会会長を勤め、公の仕事にも携わっていた。あるとき、医師会でチャリティー・バザーをすることになり、役員は作品を出すことになった。医師仲間には日曜画家や書家もいたが、父には縁がなかった。

 

「文子、色紙を描いてくれ」

と、私にお鉢が回ってきた。

「気がすすまん。描きとうない」

と断わったが、父の鶴の一声は恐ろしい。しぶしぶ描いた菊の花の絵は、最後まで売れ残っていた。

 

医師仲間の友人には、個性派の人たちが集まっていた。上品な文化人で眼科医の堀先生、セルの着物を着流した野性味のある外科医の野田先生、目が優しく髭面の皮膚科医である東野先生らと、バラックの濡れ縁で談論風発、政治や社会のできごとについて議論していた姿が目に浮かぶ。

若いときは、家庭では暴君、患者さんには恐い医者

開業医として、懸命に働いた父は家族に対して、責任感の強い父でもあった。夏休みに兄は、弟・義人を連れて母の実家の中山に遊びに行っていた。弟はそこで赤痢に罹り、父と姉・睦子は、やっと手に入れた抗生物質を持って市内から迎えに走った。柔道で鍛えた両腕でしっかりと抱き上げ、一キロの山あいの道を歩んだ。

 

ぐったりとしていた弟が、途中で意識を取り戻して言った。

「おとうちゃん、星がきれい」

 その言葉に父はほっとしたようだった。

 私と妹・順子は、〈よっとんが死んだ〉と思って、蚊帳の中でワアワア泣いていた。生きて帰ったと聞いて、ほんとうに嬉しかった。

 

このような父も、普段は明治生まれのワンマンだった。家庭内では暴君であり、ときどき母や姉にビンタも食らわせていたらしい。兄は、罰としてよくフトン蒸しやプロレス技で羽交い締めにされたそうである。しかし、私より下の子どもたちはそんな記憶はない。

 

子どもの患者には、

「泣くな!」

と怒鳴りつける怖い医者でもあった。逆に、手に噛み付かれたこともあった。その噛み付いた子どもも、いまはもう孫のいるおじいさんである。

こんな怖い医者ではあったが、不思議と嫌われず、捕れたての魚や新鮮な野菜や、果物など、患者さんの自慢のものが届いていた。

 

ときどき、治療費を払えない患者さんも来た。そんなとき、父は、

「カネはいらん」

と言って、治療を続けたと聞く。

晩年になると、そんなパワーも失われ、優しい父になっていた。

情緒のない人だったが、情のある人だった。

 

せっかちなドライバー

私が二十歳で自動車運転免許を取ったとき、〈負けた〉と思ったのか、父も免許取得にチャレンジした。父は自分が免許を取る前から、『パブリカ』を買った。

 私はノッキングさせながら、父やVIPを乗せて郊外のレストランに行ったが、帰りのドライブを思うと、ご馳走も喉を通らなかった。まだ女性ドライバーが少ないころであり、国道を走っていると、トラックの運チャンに、

「ようー! ねえちゃん」

と擦り寄られて、ひやひやした。

 

あんなにすばしこく手先の器用な父だったが、免許取得には苦労した。学課は一度でパスしたが、実技に五回以上も落ちた。たまりかねた母と婦長さんは、教習所の垣根越しに、

「センセイ、ガンバレー!」

と応援した。

 

免許を取ったらこっちのものとばかり、関治叔父さんと車を連ねて、母や友人を乗せて、四国路を走り回った。

 せっかちな父は、

「行くぞ」

と言ったら、もうエンジン全開。弁当など間に合わず、寿司折り買って、水筒持って、いざ出発。私も、歴史探訪に幾度もお伴した。負けず嫌いで、追い越しばかりしていたが、大きな事故もなく幸いだった。目配りと注意力は確かなものであった。

 観光スポットに行っても、ゆっくり見物することはなく、

「来たぞ。見たぞ。次へ行くぞ」

と、地図に赤鉛筆で印をつけ、先を急いだ。

 

カムカム、エブリボディ

父の趣味に、映画{洋画}を観ることと美空ひばりを聞くこともあった。近くのモデル劇場に、よく映画を観に行っていた。

 後ろから声がかかる。

「前のおんちゃん! 椅子に乗らんといて、後ろから見えんぞね」

 

 そう、父は胴長短足である。映画館でにょっきり頭が出た男性が前に座っていると、父のことを思い出す。

まだ日本語の吹き替え映画が珍しかったころ、

「あれらあ、よう日本語を練習しちゅうなあ」

と言った父の友だちのセリフも懐かしい。

 

映画好きは、私が受け継いでいる。『映画の友』を定期購読していたので、待合室でこれを見るのが高校生のころの楽しみだった。父はモーリン・オハラやヴィヴィアン・リーがタイプだったようである。ゲーリー・クーパーも好きだった。

病院を取り壊すことになり、待合室の一隅で本の整理をしていたら、ヘップバーンが表紙になっている『映画の友』が出てきて、座り込んで読み耽っていると、六十年代の銀幕が蘇った。右眉の上るグレゴリー・ペックもタフなチャールトン・ヘストンもそこにいた。そのうち四、五冊を取り置いて、いまも時々めくっている。

 

父は勉強好きで、〈カムカム、エブリボディ〉で始まる平沢和重先生のNHK英会話を、朝早く起きて聞いていた。いまと違って、町医者には海外に行くチャンスはなかった。もっぱら趣味の映画のセリフを聞きとりたい、と思っていたのかもしれない。

 

英会話の勉強の効果は、後に兄と行ったヨーロッパ旅行で試されたようだ。

「オーストラリア人にも、イギリス人にも、スペイン人にもよく通じたぞ」

と嬉しそうに語っていた。

「フランス料理もイタリア料理も、まっことうまかったなあ」

と思い出しながら。そう、父は〈おかあの料理が一番うまい〉と言って、めったに外食をしない人だった。

 

映画{洋画}と演歌はミスマッチのように思えるが、父は美空ひばりのファンだった。テレビも早い時期に購入し、ひばりに聞き惚れる父も、また似合っていると思う。多くをの人の心を魅了して止まない歌声は、ひばりが亡くなったいまでも、テレビやラジオで流れている。

〈おらが言うた通りじゃろうが。ひばりの歌は生き残るぜよ〉

と、天国で衛星中継を見ているのかもしれない。

 

〈しもうた、浮気をしといたらよかった〉

こんなふうに小学生のころから悪ガキだった父も、晩年には弱気な老人になっていた。

心臓を患い、亡くなる二年前にはペースメーカーを入れた。入院中、子どもたちは、代りばんこに父の世話をした。私の当番のとき、痙攣を起こし、慌てた。歩行訓練で父を支えたときは、強い父が、幼いころに父親を亡くした淋しがり屋の甘えん坊の幼児に戻っているように思えた。

 

快復して最初に入浴したとき、顔も肌もピンク色に輝き、生まれたての赤ちゃんのようだった。

「あと、何年か生きるぞ」

と、希望に満ちたあの姿は忘れられない。

そうは言うものの、医者なので自分の体のことはよく分かっていた。

「わしゃ、もういかんぞ」

「死ぬぞ」

とも繰り返していた。

 また、

「しもうた。浮気をしちょいたらよかった」

と、誰にともなく言っていた。

 

母は、虫刺されから足が化膿して入院中だった。前の日、病院に母を見舞った父は、朝九時ころ突然に心臓発作を起こした。

 そのとき、二階にいた婦長さんの名を、

「タカちゃん」

と呼んで、こと切れた。昭和六十二年九月十四日、八十二歳だった。九大受験前のチフスと患者さんからうつった赤痢、それに胆石や盲腸も患い、喘息にも悩まされ続けた父としては、長生きできたと思う。

 

【謝辞】情報収集には、次の人たちの協力を得た。感謝します。

元婦長・田中美好さん。母・安岡泰。義兄・吉村總一郎。兄・安岡正人。弟・安岡義人。夫・高之。