丈夫で長持ちしています

武山文子

 

海の見えるケアハウス〉

「小渕はもっとしゃんとせにゃあ」

「森は体格ばっかりじゃ」

「小泉のクルクルパーマはなんとかならんかね」

  テレビの国会中継を見るのが好きな九十二歳の母のつぶやきである。体制を厳しく批判することを生きるエネルギーにしている。新しい時代の変化についてゆけず、便利なことには悉く反対する。電磁調理器を拒否し、醤油は一升ビンで買う。

脳梗塞、二度の胆のう炎を高圧酸素療法やバルーン・カテーテル術といった現代医学の最先端治療のおかげで、その都度蘇っていることには気が付いていない。ホームヘルパーの助けを借りての九十一歳までの独居生活から、今は海の見えるケアハウスで介護に文句を言いながら、車椅子の生活を送っている。

遠方にいる子供たちが交代で訪ねてくれることと、毎度の食事を一つひとつ吟味しながら食べることを最大の楽しみにして、

「ちっともまだ死ぬ気がせんきにねえ」

と頑張っている。老人を介護していると〈二つのパターンに分かれますよ〉と先輩が教えてくれた。依存型で甘えるタイプと独立型でしっかりタイプがあり、中間はないそうである。もちろん母は後者である。いつも一番の立腹の原因は、

「私に黙って事を運ぶ」

である。何でも納得すれば、満足している。指示をするのが好きで、指示をされるのが大嫌いである。ケアハウスの名は《ヘリオス》である。これはどういう意味だろうかとずっと考えていたようである。そこで経営者に尋ねたら、

「ギリシャ語で太陽という意味です。暖かいホームになればと名付けました」

と、すかさず母は、

「私は屁リオスかと思っていた」

と混ぜ返す。私は太陽のイラストを描き、《ヘリオス》のネームスタンドを作って、テレビの上に置いた。部屋に居て、朝な夕な刻々変わる海の様子や雲の行方を追いながら、

「ここにいると地球のサイクルがよくわかるねえ」

と母の声。雲の様子をスケッチしていた私は、

「うん、そうね」

とうなずいて、振り返った。自然科学者のような母に驚きながら。

 

〈母・泰の生い立ち〉

泰の実家・伊吹家は高知県安芸郡安田町中ノ川にある。先祖は平家の落人と言われており、江戸時代から代々、村医者を開いていたらしい。中ノ川は落人が隠れるのに相応しい山間の村である。泰は明治四十二年一月十七日、そこで生まれた。貫一・お宮の熱海の海岸と同じ日だといつも聞かされていた。大正四年頃、小学生だった泰は二キロの道を歩いて通った。服装は木綿の着物に前掛け、カバンはビロードの肩掛け式だった。同級生は女九人、男十二人。石版を使って勉強した。この頃から体が大きく、四年の時は五年の代役で楠正成・正行の《桜井の別れ》を演じたそうだ。そういえば、〈青葉繁れる桜井の……〉と口ずさんでいるのを耳にする。勉強は学校で、放課後は家の手伝いをし、野山に山菜取りにも行った。料理好きは、この頃から芽生えていたのだろう。

 

男女交際そんなものあるもんか〉

泰は大正十年、高知市にある第一高等女学校を受験した。本人の話によると、電報の問題が出て、濁点を落とし、不合格となった。一年間、高知市の高等小学校に通い(つまり浪人して)、翌年目出度く入学した。山間の村から、高等女学校に行く人は少なく、柳行李を後ろに括り付けた乗合自動車に乗って、カーブした山道を曲がるたびに酔いを感じながら、寄宿舎に急いだ。

寄宿舎では、食事当番で腕を磨き、舎監先生に食事を出すのが習わしだった。献立は上級生が立てる役割で、泰も得意であった。ここでの料理修行が後に役に立っている。外食はお金がかかるので、睨むだけで、精々菓子や煎餅を買うのが楽しみであった。男女交際はと聞くと、

「そんなものあるもんか」

と即答する。交際が見付かって、即日退学になった同級生がいたと聞く、モラルの厳しい時代であった。寄宿舎は、旧制高校に通っていた実の兄さえシャットアウトであった。

遠足は徒歩で桂浜に行った。修学旅行は神戸まで船で渡り、伊勢神宮・二見ケ浦を経て、東京の二重橋、明治神宮などを見学した。汽車には初めて乗り、伊勢から東京まで十二時間かかる長旅であった。大正十五年、女学校を卒業し一年ほど家に居た後、父が日本女専に推薦入学の願書を出してくれたが、不合格となった。

昭和三年、京都岡崎にいた田川の伯母さんのところへ、花嫁修業に行った。当時は、すでに円タクがあったが、泰は同伴の父・政太郎と人力車で田川家に向かった。伯母さんは待ちくたびれていたそうである。ここでは、池坊のお華や中華料理を習った。この時、京都に持っていったという皮のトランクが今私のところにある。濃い緑色で角は擦れて下地の茶色が見えているが、レトロでいい感じである。

 

〈父・藤吉との出会い、丈夫で合格〉

泰の兄・順一郎と父・藤吉は中学校の寄宿舎で親友であった。藤吉が九大在学中、夏休みに帰省の際、友人の妹を下見しようと、兄・大六と一緒に泰の家にやってきた。その時、泰は洗濯中であった。兄が寄宿舎からたくさん持ち帰ったノミの糞だらけの寝具を灰汁で洗い、下の川ですすぎをを終え、桶一杯の洗濯物を持って、長くて急な石段を上がってきたところだった。泰の丈夫さと力は、ここで確認された。藤吉は、

「妹を見せてくれ」

と順一郎に頼んだ。それを聞いた弟・二三雄が姉に急報した。

「おけ(大きい)姉ちゃん見せてくれと言いよる」

藤吉と順一郎は涼み台で、たるばあ(十分に)ビールを飲んで談笑し、帰り際に藤吉は、

「よろしく頼む」

と依頼した。兄・大六はその間に、屋敷周りを見てまわり、下調べは完了した。藤吉は泰のことを〈丈夫そうで合格〉と勝手に決めるが、泰の方は藤吉をろくに見ていない。

「向こうはさんざん見て、こちらは全然見るものかね」

母親の金恵は大柄な自分の娘とくらべて、

「ちとこまいね」

と感想をいった。順一郎は、

「藤吉はしょう(大変)頭がいい」

と妹に薦めた。こうして、背が低くて、子供の頃は逃げ足の早い悪ガキだった医師・安岡藤吉と目出度く、昭和六年二月十一日に結婚式を挙げた。藤吉二十七歳、泰二十二歳。結婚式まで一度もデートはなかった。

 

〈先を歩く嫁〉

藤吉は新妻を田舎に残し、九州に帰った。二ケ月間、泰は気難しい姑のもとに残された。その後、四国、九州の病院を転々とする度に、姑はやってきた。別府にいる頃、姑と三人で阿蘇山に登った。泰が姑より一歩先を歩いていると、

「嫁の分際で先に登るとは何事ぞ」

と叱られた。その声が今でも耳に残っているという。昭和八年長女が生まれて、初めて結婚届が出されたのも、封建時代の名残りである。藤吉は大学で博士号を取った。月給は二百五十円だった。小学校の教師の初任給が四十円の頃で、かなり高給であった。生活費の他に、開業資金、弟の学資援助に当てていた。昭和十一年高知市に耳鼻咽喉科を開業した。

 

〈戦災、疎開、子育て〉

  次々と長男、二女(私)、三女、二男と生まれた。ここから先は二女の私の記憶である。

戦争の影が濃くなり、父と姉、兄を高知市に残し、母と小さな兄弟姉妹たちは、母の実家がある山間の村、中ノ川に疎開した。疎開先で母は大家族の食料調達に苦労した。伯母やいとこたちと過ごした日々は、暖かい思い出として故郷の風景とともによみがえってくる。小川で取ったエビや小魚、ワラビ、イタドリ、セリなど山菜取りも楽しかった。成人してから、私はその家のまわりを絵に描いて再現することができた。お腹の悪い祖母が、白いオカユを食べているのを羨ましく思った妹は、

「おばあちゃんはまだお白かね」

と言ったそうだ。後年、兄弟姉妹が集まると、このセリフはいつも話題になるのである。イモ入りご飯ばかり食べていた頃の話である。

昭和二十年七月高知市は戦災を受け、我が家も焼け出された。終戦後、焼け跡に三DKのバラックを建て大家族は肩を寄せ合い、生きることに一生懸命の日を送った。戦後まもなく、南海大地震に見舞われた。多数の死者を出した。今でも、あの揺れは私の体に残っている。栄養失調と過労から母は中耳炎を患い、病気は脳の方へ進行していった。幸い父が耳鼻科だったので、手術して一命は取り留めたが、その傷が癒えぬうちに、この大地震であった。父母と五人の兄弟姉妹と看護婦さんも必死に逃げたが、幸い家は無事だった。     焼け跡を耕して、トマト、ナス、キュウリを作り、バラックの屋根はカボチャの花が満開であった。イモ、カボチャを見るのをいやという人がいるが、私はイモ、カボチャが大好きである。父や兄は鏡川でウナギを獲ってきた。これは重要な蛋白源であった。母はバケツ一杯のウナギを捌き、七輪で蒲焼きを作った。末の弟も生まれ一家は忙しかった。

 

病院経営の裏方として〉

母は激動の時代を生きてきた。明治生まれの多くの女性が逞しく自己を主張するのは、少しのことでおたおたしていたら、前に進めなかったからであろう。母は病院経営の裏方として、父を支える役をしてきた。大家族の食事さえ大変だが、入院患者に出す給食の賄いも一手に引き受け、管理栄養士、調理師の役目も兼ねていた。助手は子供達でフル回転で働かされた。扁桃腺患者のために、三分ガユ、五分ガユと炊き分ける。あの頃のカレーライスはサイコロ型に切ったニンジン、ジャガイモ、タマネギ、薄切りの牛肉がはっきり見えるサラサラカレーだった。患者さんから美味しいから、お替わりと言われて、みな笑ってしまった。多い時は一日三十人分を作っていた。事務局長兼看護婦長さんから、一日の集計が入った手作りの木の金庫が母にリレーされると帳簿づけが待っていた。いつ寝ていたのだろうか。

 

〈楽しみ〉

子供達は成長し、皆大学を出て、結婚し、孫も十四人になった。町医者の妻の仕事もピークを過ぎた。十五年あまり前に父が亡くなってからは、母は一人暮らしとなった。

父の趣味は洋画を観ることと美空ひばりを聴くことであった。昼休みには、近くのモデル劇場に、看護婦さんを連れてよく映画を観に行っていた。病院の待合室には、『映画の友』も置いてあった。 しかし、母と一緒に映画を観たことはない。

「映画なんか、戦後何十年と連れて行って貰ろうたことなんかあるもんか」

と、それを母は今でも恨みがましく言っている。もっとも、母はテレビでも、映画やお笑い番組はあまり好きではなく、すぐに国会中継に回してしまう。

夫婦仲が悪かったかというとそうでもない。四国の地図が真っ赤になるほど、父の御伴でドライブを楽しんだ。この時、せっかちな父の〈さあ行くぞ〉の一声がかかれば、手弁当など作っている暇はない。すし折りを買って水筒を持って、直ちに出発した。父は、外で食事をすることをあまり好まず、専ら母の手料理を楽しんでいた。今、ケアハウスのベットの横には父の写真が飾られている。造花のカーネーションがついた写真を見ながら、

「おじいちゃんが守ってくれているわね」

と言っている。

やはり、母の楽しみはみんなに料理を振る舞うことであった。

 

〈おばあさんの古テーブル〉

  実家には大きなデコラ張りのテーブルがある。薄緑のマーブル柄で、キズやシミがあるが、四十年以上母の手作りの食事が並んだ。取り囲む人々は栄養をもらい元気をもらった。春は竹の子の鉄砲ずし。鶏肉の入った五目ずし、アジやサバの姿ずし、巻きずし、ナスのからし煮、イタドリの煮物、酢ごぼうや柚子コンブ。息子や娘、婿や嫁、孫達、親戚、知人、友人など訪れる人々はこのテーブルで、大皿料理のもてなしを受けた。悲しい話題は美味しい料理を食べることで忘れられた。嬉しいことは分けあった。

「さあ食べなさいよ」

と母のニコニコ顔を見ると大きなものに包まれてゆくように感じたものだ。おばあさんの古テーブルは今でもまだ役に立っている。料理は分家して行って、それぞれの食卓で次の世代へと受け継がれている。イラスト入りで母の料理集を出版したいと思っている。急がねばならない。

 

〈病院にて〉

  十二月に母は胆管に石が詰まって、二週間入院した。胆汁導管の弁当箱、尿導管の袋、点滴の管、酸素マスクを付けた体は、チューブに絡んでままならない。

「体の向きを変えるから背中にタオルを入れて」

「はい、こんな感じ」

「ちょっと、首の角度が悪いぞね。枕を高くして」

「さっき低くしてと言ったでしょう」

「毛布が重いから、タオルケットに変えて頂戴」

「……………」

五分おきにコールされる。ビーチ用の三つ折りタイプの簡易ベットから起き上がるのは容易ではない。自立老人も、ここでは娘に甘えるタイプに早変わりか。スキンシップを求める三歳児に戻っている。頭がしっかりしていて、頑固な三歳児は手ごわいのである。私がいないとナースコールを繰り返しているのだろう。

「安岡さんは、まだましな方ですよ」

とあとで、ナースは言っていた。病室のすぐ前のナースステーションでは、着信メロディーの《エリーゼのために》が繰り返し、繰り返し流れていた。

体の移動はとてもエネルギーがいる。この体重なんとかならないか。待てよ、DNAを私も受け継いでいる。先が恐ろしい。ハリー・ポッター様、魔法の杖で母の体を五十センチ持ち上げて下さい。物言わぬと只の荷物にされて仕舞いかねない介護の現場である。母のように文句を言うのは生き残るコツであるのか。痛いときは痛い、おかしい時はおかしい、筋が通っていれば、周りも納得する。たくさんの人に支えられてどっこい生きている明治生まれの母である。味覚が失われず、食べることに興味がある限り命は続いて行くでしょう。

〈丈夫で合格〉、どうやら父の選択は間違いなかったようである。